満州国とユダヤ人対策
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1935年2月、ハルビンで極東ユダヤ人会議の議長カウフマン博士及び幹部たちとの協議の結果、日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体として「世界民族文化協会」を創立し、医学博士の磯部検三を顧問とし、また自ら会長となって、安江は、在満ユダヤ人の保護に尽力し、また回教徒や白系ロシア人にも助力した。 要綱内容の下敷きになったのは、1938年(昭和13年)1月21日付で関東軍司令部で策定された「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」であり、そこには「満州国開発に際し外資導入に専念するの余り、猶太資金を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑制す」とあるように、経済界には投資のうま味があることをほのめかし、軍部には米国資本が投入されれば対米関係の打破にもなることを匂わせ、政府を説得するために、「八紘一宇の我大精神」という錦の御旗を掲げる玉虫色の「要領」だった。 河豚計画を海軍の犬塚惟重と共に構想したことから、安江は犬塚と並べて理解されることが多いが、犬塚と安江を同列に論じることはできない。犬塚は、1938年10月の講演で、「猶太人ノ咽喉ヲ扼シ徹底的ニ之ヲ圧服スルヲ要ス即チ日本側カ厳然実力ヲ振ヒ得ル今日確固タル自身ト強烈ナル意気込トヲ以テ彼等ヲ牽制圧服シ我國ニ依存スルノ必須ナル所以ヲ了解セシメ他面其馴致工作ヲ実施スルヲ適当トス」と述べる、日和見主義的なユダヤ利用論者であった。 戦前の日本政府の最高意思決定機関であった五相会議で、「猶太人対策要綱」が策定されたのも、安江が当時の陸軍大臣・板垣征四郎に働きかけがあったためである。この要綱の成立過程に関する安江の役割については、これまで長男・弘夫の証言だけで資料的裏付けがなかったが、関根真保が京都大学に提出した学位請求論文の公開『日本占領下の上海ユダヤ人ゲットー』(2010)のなかで、「満鉄外國経済調査係ニ課スル研究問題」(1938年10月27日)という資料のなかに、満鉄側のメモ「本件ハ安江氏ノ私案ナリ」という記述を発見したことが報告され、この資料のなかに「猶太人対策要綱」の内容が網羅されていることから、安江弘夫の証言の正しさが立証された。 安江らの働きかけで決定された、「猶太人対策要綱」には、「猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値のあるものはこの限りにあらず」とあり、安江個人の考えとしては、単なる利用論を越えた人道的な配慮を想定していたが、日独伊三国軍事同盟が締結され、続いて日本が対米英戦(太平洋戦争)に突入すると、ユダヤ人を利用した満州への資本導入や対米世論の改善策が論外となり、軍部にとって次第に安江の存在は目障りになり、憲兵隊の尾行がつくようになった。日本政府は要綱の裏で1938年10月7日の外務大臣訓令『猶太避難民ノ入国ニ関スル件』(米三機密合1447号)によりユダヤ難民の受け入れ制限を実施していた。
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