満州唱歌集の誕生
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1922年(大正11年)、それまで南満州鉄道附属地と関東州で別個に教育事業を担い、教科書や副読本を発行していた南満州鉄道と関東庁が共同出資し、教科書発行事業を一本化するべく南満州教育会教科書編集部が設立された。 当時の満州では本土と同じ国定の教科書を用いた教育が行われていた(内地延長主義)が、編集部は将来の満州を支える人材を育成するべく、子供たちが満州に親しみを覚えることのできる教材を用いて教育を行おうとした(現地適応主義)。唱歌集についても、満州の風土は文部省唱歌に歌われている日本の風土とかけ離れており、満州の風土を反映させた歌を掲載したものを制作することにした。こうして作られたのが『満州唱歌集』である。1924年(大正13年)に初の唱歌集『満州唱歌集 尋常科第一・二学年用』が発行され、続いて1926年に『満州唱歌集 尋常科第三・四学年用』が、1928年(昭和3年)に『満州唱歌集 尋常科第五・六学年用』が発行された。この、初めて作られた唱歌集には編集部が作った歌や一般公募の歌のほか、北原白秋・野口雨情・島木赤彦・巖谷小波・山田耕筰・信時潔など、当時著名だった歌人・詩人・作曲家の作品が多く収録された。北原らは制作にあたり、編集部の招待により実際に満州を訪れている。 成城大学名誉教授の磯田一雄は、最初期の満州唱歌について、「文部省唱歌よりもずっと西洋音楽に近い感覚をもっていた」と評価し、本土よりも水準の高い満州の音楽教育の象徴の一つであったとしている。
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