満州事変時の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 07:55 UTC 版)
1930年(昭和5年)に情報部長となったが、1931年(昭和6年)には満州事変が勃発した。白鳥は事変擁護の姿勢をいち早く打ち出し、森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。事務総長のエリック・ドラモンドから内密に調停の私案が日本側に提示された際、白鳥は独断でこれを公表し、いかなる国際連盟の調停も拒否する姿勢を表明した。ドラモンドは不快感を示し、国際連盟日本代表部は困惑することになった。1933年には幣原外相が錦州に進撃しないとアメリカ合衆国国務長官ヘンリー・スティムソンに伝え、アメリカ側がこれを「日本が錦州を攻撃しないという誓約を行った」という発表を行って問題になった「幣原外相軍機漏洩事件」が発生したが、白鳥はアメリカ側の発言を非難し、「血迷えり(see red)」という極めて強い言葉でスティムソンを非難した。このため出淵駐米大使がスティムソンに遺憾の意を表明することとなった。 白鳥は事変の発生を佐官級の十数名が陸軍首脳を引っ張って発生させたものであると見ており、当初は満州独立を列国の同意が得られないとして否定的に考えていた。しかし事変後には「法華経や四書五経など古いものばかりを見ている」ようになり、今の日本のスローガンは「アジアに帰れ」であると主張するようになった。この白鳥の変化を山本勝之助は、白鳥は職務上軍と接触することが多く、小心な彼は反英米・反国際協調的な思想を持つ彼らと同調することで歓心を得ようとしていたが、いつしかそれを自分の本質と考えるようになったと指摘している。 12月には事変後の混乱により第2次若槻内閣が倒れ、犬養内閣が成立した。内閣書記官長には白鳥と親しく、「アジアに帰れ」という言葉を用いる森が就任した。森の主導によって、対満蒙実効策案審議会が設立され、白鳥はその外務省代表メンバーとなった。また白鳥は外務省内部に陸軍の参謀本部のような外交政策を検討する「考査部」の設立を主張し、一部の若手官僚の支持を集めた。また政治家との接触を頻繁に行い、森や鈴木とは連日料亭で会談をおこなった。特に森との関係は濃密であり、「白鳥はどうでも自分のいふ通りになります」と森が語るほどであったという。 1932年に成立した満州国承認問題については「別に急ぐこともないさ、運河を掘る訳じゃないからね」と海外記者に伝えるなど、白鳥のアメリカに対する態度は極めて挑発的であった。ウィリアム・キャメロン・フォーブス(英語版)駐日大使は白鳥を「悪玉(evil genius)」と評し、後任となったジョセフ・グルーも「自分の独断か、外務省外部からの人間の指示に基づいて行動している」「外国の特派員に対してセンセーショナルな(そしてしばしば誤解を招きやすい)談話を公表することを喜びとしている」「極秘裏に行った外交会談の内容を独断で公表し、しかも誤った要約を行う」などと評している。さらに国際連盟脱退など軍部と連携して英米に対する強硬外交を推進し、そのための世論誘導に努めた。そのため、元々は連盟脱退反対派だった松岡洋右が国際連盟脱退の英雄として扱われるようになったことには、「最後まで脱退の決意ができず、なんとか辻褄を合わせて残ろうとした者」と露骨に不快感を表していた。
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