満州事変後の活動
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満州事変勃発後の1932年(民国21年)8月17日、于学忠は河北省政府主席に異動した。翌1933年(民国22年)3月に熱河省を失陥し、翌月に張学良が下野すると、残された東北軍のほとんどは于学忠の指揮下に入った。日本側は于学忠を篭絡しようと様々な工作を仕掛けたが、于学忠は一切拒否している。そのため、1935年(民国24年)6月の梅津・何応欽協定(何梅協定)の交渉における覚書第1条では、真っ先に于学忠の河北省政府主席からの罷免が掲げられることになった。 結局、于学忠は省政府主席を罷免され、11月に甘粛省政府主席に異動した。また、中国国民党第5回全国代表大会で中央執行委員に選出されている。1936年(民国25年)12月、于学忠は西安を訪れ、西安事変を起こそうとする張学良と会談することになる。このとき、于学忠は慎重論を最初は唱えたものの、最終的には決行に同意し、蘭州で張学良の行動を支援した。西安事変解決後、張学良が南京で拘留されることになると、張学良の指示により于学忠が東北軍の指揮に責任を負うことになる。張学良の逮捕の影響もあって、東北軍では不穏な動きが相次いだが、于学忠は楊虎城と協力して再度の兵変勃発という最悪の事態は防いだ。
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