満州国での活動
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満州事変勃発直後の1931年(民国20年)9月25日、袁金鎧・于沖漢・闞朝璽ら9名は関東軍司令官本庄繁から奉天地方維持委員会委員に任命された。28日、袁・闞・趙欣伯の3人が協議し、奉天地方維持委員会で遼寧(奉天)省政府の機能を代行することにつき決定した。その後、袁は奉天地方維持委員会委員長に就任している。同年12月15日、奉天省政府が成立、臧式毅が省長に就任すると共に、奉天地方維持委員会は解散され、袁は省政府最高顧問に転じた。 満州国建国後の1932年(大同1年)3月10日、袁金鎧は参議府参議に任命された。翌1933年(大同2年)3月、袁金鎧は立法院憲法制度調査委員会委員となり、1934年(康徳元年)5月、恩賞会議議定官に異動する。1935年(康徳2年)2月2日、尚書府大臣に任命され、同年には帝室大典委員会委員も兼ねている。1944年(康徳11年)4月24日、四肢の運動麻痺を発症したため、尚書府大臣を辞職した。1947年(民国36年)3月、故郷の遼陽で病死。享年78。
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満州国での活動
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満州事変(九・一八事変)勃発後、チムトシムベロは日本の支援を受けて蒙古自治会を組織した。さらに、満鉄の支援により鄭家屯で開催された蒙古王公会議にも出席している。翌1932年2月の満州国建国最高会議にも参加した。満州国建国後の1932年(大同元年)3月14日、興安局局長に任ぜられた。同年8月3日、興安局が興安総署に改組され、そのまま署長に留任している。1934年(康徳元年)12月1日、興安総署が蒙政部に昇格した際にも、そのまま大臣に任ぜられた。 1937年(康徳4年)5月7日、チムトシムベロは参議府参議に異動している。1938年(康徳5年)、関東軍が蒙古王公に旧領に対する所有権・徴税権を放棄するよう求めてくると、これに率先して賛成した。1941年(康徳8年)3月、参議を辞職し、満洲電信電話株式会社副総裁に就任している。およそ1年後に辞任、帰郷した。1942年8月1日、故郷のゴルロス前旗で死去。享年69(満68歳)。
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満州国での活動
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1931年(民国20年)9月18日に満州事変(九・一八事変)が勃発すると、その直後の21日に張海鵬は関東軍に降伏した。10月1日に張は独立宣言を発布し、洮索辺境保安司令を自称、関東軍に呼応した。翌1932年(大同元年)3月9日、満州国が正式に成立すると、翌10日、張は参議府参議兼執政府侍従武官処武官長に任ぜられている。同年11月、陸軍上将位を授与された。1933年(大同2年)5月、熱河省警備司令官兼熱河省省長に任ぜられ、翌1934年(大同3年)11月まで務めた。同年中に、侍従武官処武官長(この時点では治安部管轄)に再任された。1939年(康徳6年)1月、侍従武官長は治安部管轄から皇帝直轄へと改められたが、張はそのまま留任した。1941年(康徳8年)3月3日、張は武官長から勇退し、吉興がその後任となった。1944年(康徳11年)9月29日、于芷山・于琛澂と共に軍事諮議官に任命された。 満州国が滅亡すると、張海鵬は錦州筆架山の寺院に身を隠し、中華人民共和国成立後には北京へ逃れた。しかし1951年5月20日、北京市人民政府から反革命罪として死刑判決を言い渡され、即執行された。享年85。
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満州国での活動
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1932年(民国21年)1月、于琛澂は満州国建国に参加し、吉林剿匪司令に任ぜられた。翌月、ハルビンを攻め落としている。3月に満州国が正式に成立すると、東省鉄路護路軍副司令に任命された。翌年に総司令に昇格し、依蘭地区警備司令も兼ねた。1934年(康徳元年)7月、第4軍管区司令官兼北満鉄路護路軍総司令となっている。翌年、第1軍管区司令官に異動し、陸軍上将銜を授与された。1937年(康徳4年)3月、奉天地区警備司令部司令官を兼任し、7月1日には三江省省長も兼ねた。 1939年(康徳6年)4月、于琛澂は治安部大臣に任命され、陸軍上将に昇進した。1942年(康徳9年)6月10日、満洲国特使として蒙古自治邦政府を訪問し、主席のデムチュクドンロブ(徳王)と会見した。同年9月28日、満洲国の大規模な人事異動に伴い、治安部大臣を辞任、翌29日に張海鵬・于芷山と共に軍事諮議官に任命された。この異動については、于琛澂が過度の飲酒により関東軍高官の前で失態を犯したことが原因との指摘もある。1944年(康徳11年)、病没。享年58。
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