死後一世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 04:50 UTC 版)
「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「死後一世紀まで」の解説
メンデルスゾーンの死は突然のことだったため、ドイツとイングランドの両国で彼を悼む声が聞かれた。しかし、同時代に活躍した仲間たちとは異なって保守的な態度を取っていたことで、彼の音楽には見下したような目が向けられた。メンデルスゾーンとベルリオーズ、リストら他との関係は、窮屈で一筋縄ではいかないものだった。メンデルスゾーンの才能に疑問を呈した聴衆の1人に詩人のハインリヒ・ハイネがおり、彼は1836年にオラトリオ「聖パウロ(英語版)」を鑑賞してこう記した。「(彼の作品を)特徴付けるのは、大いなる、厳格な、重々しい真面目さと、古典形式へ従おうとする決然とした、ほとんどしつこいまでの傾向、極めて賢明な最良の計算高さ、鋭い知的さ、そして素朴さを完全に欠いていることである。しかし、素朴さのない芸術に天才の独自性など存在するだろうか」 メンデルスゾーンはこのように批判されることもあり、ワーグナーがさらに強く批判した。メンデルスゾーンの成功と人気、ユダヤの出自にワーグナーは苛立っており、彼の死から3年後に反ユダヤ論文「音楽におけるユダヤ性」で彼を褒めちぎることで攻撃した。 「(メンデルスゾーンは)ユダヤ人でも特定の才能の膨大な蓄積、独自の最良かつ多様な文化、これ以上なく高く柔軟な栄誉の感覚を持ち得ることを示してくれている。しかし、このように傑出したものの助けが仮に一切なかったとしても、彼は我々が芸術に期待するような深く、自省的な効果を生み出すのである。(中略)現在の我々の淡白で浮ついた音楽様式は(中略)メンデルスゾーンが曖昧で、ほとんど取るに足らない内容を最大限に面白く活気を持って語ろうと努力する、この上ない意気込みの方へと押しやられている」 これを発端として、その後約1世紀にわたり、また現在もくすぶっているメンデルスゾーンを凡庸とみなし、作曲家としての地位を貶める動きが始まった 。ニーチェもまた、メンデルスゾーンはドイツ音楽における「愛すべき間奏」、つまりベートーヴェンとワーグナーの幕間であるというコメントを残している。20世紀に入ると、ナチスの体制とその音楽機関である帝国音楽院が、メンデルスゾーンがユダヤの出身であることを理由にその音楽の演奏を禁じ、作曲家たちには付随音楽「夏の夜の夢」を書き直すことを推奨した(これを強いたのはカール・オルフであった)。ナチス統治下では「メンデルスゾーンは音楽の歴史における危険な『事故』として出現したもので、彼が決定的に19世紀のドイツ音楽を『退廃的』にした張本人である」とされた。ライプツィヒ音楽院で支給されていたドイツ版のメンデルスゾーン奨学金は、1934年に中断されている(後の1963年に再開された)。1892年、ライプツィヒにメンデルスゾーンに捧げる記念碑が建てられたが、ナチスによって1936年に撤去された。代わりの像が2008年に建てられている。 メンデルスゾーンのイングランドでの評価は、19世紀を通じて高いものだった。アルバート公は、1847年のオラトリオ「エリヤ」のリブレットにドイツ語でこう記した。 バアル信仰者の間違った芸術に囲まれていても、第2のエリヤのようにその才能と努力をもって真の芸術の真の僕であり続けることが出来た、高貴な芸術家のために。 1851年に、10代のサラ・シェパード(Sarah Shepperd)の記した「チャールズ・オーチェスター Charles Auchester」なる賛美小説が出版された。この本ではシェヴァリエール・セラファエル(Chevalier Seraphael)としてメンデルスゾーンを描いており、80年近く増刷を重ねていた。1854年に水晶宮が再建された際には、ヴィクトリア女王がメンデルスゾーンの彫像を添えるように命じている。1858年のヴィクトリア女王の娘、ヴィクトリア妃とドイツ皇帝フリードリヒ3世の結婚式典では、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」から「結婚行進曲」が演奏され、これが今日でも結婚式で人気の楽曲となっている。イングランド国教会では、メンデルスゾーンの遺した宗教的合唱曲、特に小規模の作品が合唱の伝統の中で人気を保っている。しかし、バーナード・ショーをはじめとする多くの批評家が、メンデルスゾーンの音楽をヴィクトリア朝の文化的孤立と結びつけて批判した。ショーが特に槍玉にあげたのは、メンデルスゾーンの「入念にお上品ぶった感じ、因習的な感傷性、そして見下げたオラトリオ屋であること」だった。1950年代には、音楽学者のウィルフリッド・メラーズ(英語版)がメンデルスゾーンの「我々の道徳観にある、気付かぬ偽善的要素を反映した偽者の宗教観」を非難した。 ピアニスト、作曲家のフェルッチョ・ブゾーニは正反対の立場から意見を述べている。彼はメンデルスゾーンを「異論を待たぬ偉大さを備えた巨匠」、そして「モーツァルトの後継者」とみていた。ブゾーニをはじめ、アントン・ルビンシテインやシャルル=ヴァランタン・アルカンなどのピアニストは皆、普段からメンデルスゾーンの楽曲を自らのリサイタルで取り上げていた。
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