死後・追悼
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友人だった加藤について三島は、「私は何の誇張もなしに云ふが、生れてから加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない」と述べ、「心やさしい詩人は、『理想の劇場の存在する国』へと旅立つた」と哀悼している。 ともあれ「なよたけ」を残して死んだ加藤道夫は、「モオヌの大将」を残して死んだアラン・フウルニエを想起させる。共に完璧な青春の遺書であり、不朽の青春の証しである。しかしフウルニエは幸ひにして戦場に死んだが、加藤氏は戦後のおぞましい現実に立ち会ひ、第二幕で、子供たちの虫類虐待のざんげをきいて放つなよたけの叫びのやうに、「まあ、むごたらしい!……そんなことをするから、後の世の人達が食べなくてもいいものまで食べるやうになつてしまふ」その「後の世」に立会ふといふ不幸を、閲しなければならなかつた。かくてこの人肉嗜食の末世は、一人の心美しい詩人を、喰べてしまつたのである。 — 三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」 同じく友人で、加藤に勧められ、その後にカトリックに傾倒した矢代静一は、加藤が死の前に鬱病ぎみになっていたとする中村真一郎の仮説を鑑みながら、以下のように語っている。 いまとなっては確かめるすべもないが、その病いが、彼を病的にリゴリスト(厳格主義者)に仕立てあげ、その結果として、自分には神の御許に行く資格なしと、自己判断を下してしまったのではないか。私が、加藤の死から十年ほどたって、神に向ってその目を挙げたのは、加藤がくれたあの「カトリック入門書」の中の一節が目にとまったからであった。「自殺は最大の罪悪である」 加藤は、この一節に、わざわざ定規をあてて朱線を引いていた。 — 矢代静一「旗手たちの青春――あの頃の加藤道夫・三島由紀夫・芥川比呂志」 福永武彦は、加藤の自殺に衝撃を受け、『夜の三部作』を執筆したと語っている。 加藤の処女作であり代表作の『なよたけ』がノーカットで完全上演されたのは加藤の死後になったからのことで、1955年(昭和30年)9月に、加藤の念願であった文学座により、大阪毎日会館で芥川比呂志の演出で行われた。三島は、「彼の生前にこれを上演しなかつた劇壇といふところは、残酷なところだ」と批判しながら、もしも加藤の生前に『なよたけ』が完全上演されていれば、「彼を死から救つたかもしれない」としている。 芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。(中略)(加藤)氏があれほど上演を待ちわびた代表作「なよたけ」さえ、文学座によつて完全上演されたのは氏の死後であり、生前の氏は、いつも不安と不満におびやかされながら、ジロオドオへの至純なあこがれと、宝石のやうな演劇の夢を、心に抱きつづけた青年であつた。 — 三島由紀夫「私の遍歴時代」 加藤の死を痛惜していた岸田国士は、その2か月半後、演出作『どん底』(原作・マクシム・ゴーリキー)の舞台稽古中に脳軟化症を再発して倒れ、急逝した。岸田は加藤を追悼して次のような言葉を残していた。 彼のやうな死に方をした作家の誰よりも、彼は、この世に残した仕事の量だけについていへば、おそらく非常に少いに違ひない。そのことはまた、一方からいへば、彼ぐらゐ未来への仕事を豊かに残して去つたものはないといへるのではあるまいか。こんなことを、私はたゞ気安めの繰り言として言つてゐるのではない。今迄、彼と一緒に芝居の仕事をしてゐた人々の心のなかに、新劇の楽屋や稽古場の一隅でぢつと腕組みをして立つてゐる彼の物言ひたげな姿は、おそらく、長い年月の間、生きつゞけることと、私は信じる。それはどこか、予言者めいた、配役の妙を思はせる姿ですらあつた。 — 岸田国士「加藤道夫の死」
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