武人の時代とは? わかりやすく解説

武人の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:17 UTC 版)

山本覚馬」の記事における「武人の時代」の解説

会津藩士で砲術指南役山本権八禄高22石4人扶持)の長男として、鶴ヶ城近く武家屋敷生まれる。山本家遠祖甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久幼名を義衛と称し、諱を良晴といった。 4歳唐詩選五言絶句暗唱藩校日新館学んで頭角を現す22歳江戸出て武田斐三郎勝海舟らと佐久間象山の塾に入る。弓馬刀の師伝を得、23歳頃には藩主松平容敬より賞を受けた25歳で再び江戸出て大木衷城に蘭書学んだほか、江川太郎左衛門師事して洋式砲術研究深めた28歳でいったん会津戻り日新館教授となり、蘭学所を開設して教授になるが、守旧派批判により1年間禁足処分になる。しかし初志貫き軍制改革訴えて軍事取調役兼大砲頭取抜擢される。文久2年1862年)、京都守護職就任した藩主松平容保従い京に上り黒谷本陣西洋式軍隊調練に当たるとともに洋学所主宰し在京諸藩士に洋学講義行った元治元年1864年)、砲兵隊率いて参戦した禁門の変において勲功挙げ公用人に任ぜられる。これにより覚馬は、幕府諸藩名士等と交わる機会増え活動範囲広げるが、不幸に眼病患い、ほとんど失明同然の状態になる。失明については、禁門の変での負傷、また持病白内障悪化等が原因とされている。失明という障害負いながらも、暗殺され象山遺児三浦啓之助世話を勝から頼まれ引き受け新選組入れたほか、西周紹介され西洋事情見聞広めたのもこの頃である。のちに覚馬は西の主著百一新論』を出版した慶応2年1866年12月頃、会津藩士の中沢帯刀とともに長崎行きドイツ商人カール・レーマン鉄砲購入交渉を行う。そして翌慶応3年1867年3月には、紀州藩のためにシュンドナールドゲベール銃を3,000挺、4月には会津藩桑名藩のためにシュンドナールドゲベール銃1,300挺を購入するという約定取り交わした。さらに同じ頃、兵庫レーマン会津藩家老田中土佐との会見斡旋したこの際レーマン援助で、兵庫造船所武器工場建設する計画持ち上がったという。また、長崎滞在中、覚馬は西洋式近代病院精得館」で、オランダ人医師アントニウス・ボードウィンから眼の診察受けている。一方で赤松小三郎を介して小松清廉西郷隆盛薩摩藩幕府協調模索していたが、赤松暗殺されてしまった。 慶応4年1868年)の鳥羽・伏見の戦い(この戦いで弟の三郎戦死に際しては京に残り薩摩藩捕われて同藩邸収容されたが、同藩首脳部その人物の優秀さ知っており、決し粗末に扱わなかった。この幽閉中に建白書管見』を口述筆記薩摩藩主・島津忠義上程、これを読んだ小松西郷らはますます敬服、一層待遇良くしたという。明治元年1868年)、仙台藩邸の病院移され、ここで岩倉具視訪問を受け、翌年釈放された。

※この「武人の時代」の解説は、「山本覚馬」の解説の一部です。
「武人の時代」を含む「山本覚馬」の記事については、「山本覚馬」の概要を参照ください。

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