東海新聞を創刊
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1945年(昭和20年)4月、岡崎疎開工場建設の先行要員に選抜される。関連工場の一つに水雷触覚の東海兵器があり、同社の社長がのちに東海新聞を共に立ち上げることとなる黒柳章であった。敗戦に伴い軍需工場は解散。ガラ紡統制会社に復職するも、旧康生町の本社は岡崎空襲で焼失しており、会社の閉鎖も時間の問題であった。その頃、瓦礫の山の能見町の電車通りで黒柳章にばったり出会い、「金ちゃん、新聞をやらんかね」との誘いを受ける。ガラ紡統制会社の鈴木憲平社長の賛同も得られ、同年9月初旬、用紙獲得とスタッフの編成、資金集め等に着手。満員電車に揺られて上京すること数度、10月初めに内閣情報局から用紙割当の許可が下る。黒柳の持ち家である元能見町188番地の民家で創業事務にとりかかり、12月25日、『東海新聞』は創刊した。合資会社東海新聞の初代社長は黒柳、主幹編集長は榊原。創刊号の二面特集は「民主主義郷土の建設へ盛り上がる新生のいぶき」であった。 同年暮れ、竹内京治、画家の杉山新樹、弁護士の天野末治、岩津農商学校創立者の足立一平らと共に岡崎文化協会設立の案を練る。同協会は翌1946年(昭和21年)2月3日に創立した。 1947年(昭和22年)5月、新聞及出版用紙割当委員会から配給中止の指令を受ける。配給中止指令により全国の地方紙中20数社が廃業を余儀なくされたが、『東海新聞』は榊原の粘り強い交渉が奏効し配給復活を勝ち取ることができた(なお委員会のメンバーに同郷のソ連研究家の大竹博吉がいた)。同紙は行間全角アキを二分アキに改めて記事の収容量を増やし、東西三河の枢要地に支局を設け、やがて工場施設を自営に切り換えた。岡崎市の戦災復旧区画整理事業の計画図面を全ページ大で掲載した号は即日売り切れとなり、刊行頻度も不定期刊から隔日刊に、隔日刊から日刊へと変わった。東海新聞は株式会社化し、社長に就任。 1948年(昭和23年)1月21日から1954年(昭和29年)まで岡崎市公安委員長を務めた。1949年(昭和24年)4月、『ガラ紡績の業祖 臥雲辰致翁伝記』を出版。 1950年(昭和25年)2月下旬、市当局は岡崎公園において、来る第5回国民体育大会のバレーボール大会一般競技用コート8面の整備工事に着工。しかしメインコート4面の場所には朝鮮人学校が設けられており、同校の立ち退き移転問題が持ち上がる。朝鮮戦争勃発直前の南北間の対立がふくれ上がっていた時期だったため立ち退きは政治問題に発展、市内で大規模な騒乱事件が発生した。公安委員長の職にあった榊原は、かつての同志で北朝鮮系グループの指導幹部であった神谷光次に秘密裡に接触。会談は1時間余りにわたって行われ、榊原は公安委員長の命令で増援警備力の要請を撤回、北朝鮮系グループもこれに応えてデモ隊撤収を決定するという案がまとまり、事件は終息した。メインコートの工事は7月中旬に着工。国体バレーボール大会は10月28日から5日間、無事開催された。 1954年(昭和29年)11月10日、東海新聞社は岡崎市から委嘱され、1,200ページに及ぶ『岡崎市戦災復興誌』を編纂、刊行した。
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