東宝から新東宝へ
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1922年(大正11年)4月17日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる。父の爽介は、川部が満3歳であった1925年(大正14年)8月に東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の区長に就任し、川部が満7歳を目前にし尋常小学校就学直前であった1929年(昭和4年)3月まで同職を務めた。 江古田校舎に移転後の日本大学法文学部芸術学科映画美学専攻(現日本大学藝術学部映画学科)に進学したが、第二次世界大戦の戦局押し迫った1943年(昭和18年)12月1日に応召、陸軍東部第73部隊に入隊した。同学の学籍については、学徒出陣のため翌1944年(昭和19年)12月、同学を繰上卒業した。戦時中は無線暗号に従事したが、1945年(昭和20年)8月15日の終戦とともに復員した。 戦後は、終戦の年の10月、東宝に入社して俳優になる。1946年(昭和21年)、阿部豊が監督した島崎藤村の同名小説の映画化『破戒』に川部 守一の名で出演、教員の「青瓶箪」役を演じた記録があるが、同年3月に第1次、同年10月に第2次の東宝争議が起きたため、同作の公開は見送られた。第2次争議の最中である同年11月、大河内伝次郎ら組合員俳優が「十人の旗の会」を組織、これに賛同する斎藤寅次郎、渡辺邦男、市川崑らスタッフを含めた組合員約400名が日映演東宝支部を脱退、第二撮影所を拠点に映画製作を開始、1947年(昭和22年)3月に「株式会社新東宝映画製作所」(のちの新東宝)として東宝から分離する。川部はこれに参加、東宝作品のアーカイヴ・フッテージを「十人の旗の会」メンバーを中心に、市川崑が「中村福」の偽名で再編集した『東宝千一夜』に「助監督」役で出演、同作は同年2月25日に東宝が配給して公開された。満25歳になる同年、川部は結婚した。 同社は、1948年(昭和23年)4月25日に「株式会社新東宝」として正式に独立、社長に佐生正三郎が就任、東宝側は争議が収束して自主製作を再開したため、新東宝は1949年(昭和24年)、自主配給を開始する。川部は同年11月8日に公開された、大河内伝次郎主演、清水宏監督による『小原庄助さん』で飯田蝶子演じる「おせき」の息子の「幸一」を演じた。1950年代初め、『キネマ旬報』の「新人論壇」に投稿を開始、それが掲載されたため、同社から仕事を干されたという。そのため端役が続き、1956年(昭和31年)4月18日に公開された『ノイローゼ兄さんガッチリ娘』(監督倉田文人)を期に川部 修詩と改称する。それでも川部は執筆活動をやめず、1957年(昭和32年)5月以降、『キネマ旬報』に川部の作品批評が掲載されている。 宇津井健主演の『スーパージャイアンツ』シリーズには全作に出演しており、1958年(昭和33年)4月28日に公開された『スーパー・ジャイアンツ 宇宙怪人出現』(監督三輪彰)では「一本足の男」役、1959年(昭和34年)4月24日に公開された『続スーパー・ジャイアンツ 毒蛾王国』(監督赤坂長義)では「毒殺魔」役を演じた。
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