東宝から新東宝へとは? わかりやすく解説

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東宝から新東宝へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 19:54 UTC 版)

川部修詩」の記事における「東宝から新東宝へ」の解説

1922年大正11年4月17日東京府豊多摩郡渋谷町現在の東京都渋谷区)に生まれる。父の爽介は、川部が満3歳であった1925年大正14年8月東京府東京市麹町区現在の東京都千代田区)の区長就任し川部が満7歳目前にし尋常小学校就学直前であった1929年昭和4年3月まで同職務めた江古田校舎移転後日本大学法文学部芸術学科映画美学専攻(現日本大学藝術学部映画学科)に進学したが、第二次世界大戦戦局押し迫った1943年昭和18年12月1日応召陸軍東部73部隊入隊した同学学籍については、学徒出陣のため翌1944年昭和19年12月同学を繰上卒業した戦時中無線暗号従事したが、1945年昭和20年8月15日終戦とともに復員した戦後は、終戦の年の10月東宝入社して俳優になる。1946年昭和21年)、阿部豊監督した島崎藤村同名小説映画化破戒』に川部 守一の名で出演教員の「青瓶箪」役を演じた記録があるが、同年3月第1次同年10月第2次東宝争議起きたため、同作公開見送られた。第2次争議最中である同年11月大河内伝次郎組合員俳優が「十人の旗の会」を組織、これに賛同する斎藤寅次郎渡辺邦男市川崑スタッフ含めた組合員400名が日映演東宝支部脱退第二撮影所拠点映画製作開始1947年昭和22年3月に「株式会社新東宝映画製作所」(のちの新東宝)として東宝から分離する川部はこれに参加東宝作品アーカイヴ・フッテージを「十人の旗の会」メンバー中心に市川崑が「中村福」の偽名再編集した『東宝千一夜』に「助監督」役で出演同作同年2月25日東宝配給し公開された。満25歳になる同年川部結婚した同社は、1948年昭和23年4月25日に「株式会社新東宝」として正式に独立社長に佐生正三郎就任東宝側は争議収束して自主製作再開したため、新東宝1949年昭和24年)、自主配給開始する川部同年11月8日公開された、大河内伝次郎主演清水宏監督による『小原庄助さん』で飯田蝶子演じる「おせき」の息子の「幸一」を演じた1950年代初め、『キネマ旬報』の「新人論壇」に投稿開始、それが掲載されたため、同社から仕事干されたという。そのため端役続き1956年昭和31年4月18日公開された『ノイローゼ兄さんガッチリ娘』(監督倉田文人)を期に川部 修詩改称する。それでも川部執筆活動をやめず、1957年昭和32年5月以降、『キネマ旬報』に川部作品批評掲載されている。 宇津井健主演の『スーパージャイアンツシリーズには全作に出演しており、1958年昭和33年4月28日公開された『スーパー・ジャイアンツ 宇宙怪人出現』(監督三輪彰)では「一本足の男」役、1959年昭和34年4月24日公開された『続スーパー・ジャイアンツ 毒蛾王国』(監督赤坂長義)では「毒殺魔」役を演じた

※この「東宝から新東宝へ」の解説は、「川部修詩」の解説の一部です。
「東宝から新東宝へ」を含む「川部修詩」の記事については、「川部修詩」の概要を参照ください。

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