東宝からの契約解除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:45 UTC 版)
黒澤とのコンビで製作した『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭のグランプリを受賞、『七人の侍』ではヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を受賞して、藤本真澄と田中友幸とともに東宝の三大プロデューサーと称され、その筆頭格だった。 しかし豪邸で派手な生活をした上に、1953年のスターリン暴落で株式投資に失敗し、その穴埋めに予算を私的流用したことが発覚。さらに原作料や成瀬巳喜男や菊島隆三らスタッフへの未払いも起こしていた。多額の使途不明金に加えて、領収書の文書偽造もあったため、警察沙汰になりかけたが、不透明な会計は予算超過を繰り返す黒澤作品の予算の穴埋めも一因だったという。事の次第を聞いて呆れ果てた黒澤は「ああ金にだらしがないんでは仕様がねえよ」と語り、本木をかばうことは出来なかった。 1957年、東宝とのプロデューサー契約が解除。浜田とも離婚し、豪邸も手放した。『釈迦を求めて』『レイテ沖海戦』を企画したが、採用する会社はなかった。 流用事件のほとぼりが冷めた頃、東宝資本の製作会社「宝塚映画」(現・宝塚映像)の社長職を打診されたが、本木はこれを拒んでいる。その理由は明かされていない。 その後は、PR映画、教育映画、テレビ番組の下請けなどとともに、ストリップショーを撮影した短編のショー映画を手掛けていたが、岩波映画プロデューサーの大井由次からの助言でピンク映画に乗り出すこととなる。
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