東宝の傘下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:50 UTC 版)
円谷プロダクションの設立当初は、創業者の円谷英二の出身の映画会社である東宝との結びつきが強く、円谷プロダクションの筆頭株主にもなっており、東宝役員が非常勤役員を兼ねたり支配人など事務系スタッフを出向させていた。また、東宝の東京都世田谷区砧にある撮影所の近くにある衣装部の倉庫や東京美術センター(現:東宝ビルト)の提供を受けたり、東宝受注のテレビ番組と映画を孫受けて受注するなどしていた。 1969年、特撮テレビドラマ『怪奇大作戦』が終了するころになっても、テレビ局からの新番組の発注はなく、仕事が途絶えてしまう。経営に行き詰まった円谷プロダクションは資金調達のために増資して筆頭株主の東宝は、これを引き受けて円谷プロダクションの株60%を取得して、子会社化。社長は円谷英二だったが、東宝からは7人の役員が派遣されて、東宝の藤本真澄も代表権を持った。東宝はリストラによる経営再建策で、金城哲夫が所属している企画文芸部を廃止して約150人いた社員を40人にまで圧縮された。滞っていた業者への支払いや借金返済についても、親会社になった東宝の力によって5年間の猶予期間が設けられた。そのおかげで、円谷プロダクションは制作を継続することができた。 1970年1月25日、円谷英二の病死により、円谷一が2代目社長に就任。 1973年2月9日、円谷一の急死により、円谷皐が3代目社長に就任。 1979年、映画『ウルトラマン怪獣大決戦』が松竹富士系で大ヒットしたが、これに関して映画雑誌『キネマ旬報』に「ライバルの松竹に塩を送った格好の東宝は渋い顔」という内容の記述がある[要文献特定詳細情報]。 1983年、経理は東宝の出向重役が管理しており、代表印も東宝が保有していた。これにより、東宝のメインバンクであった三和銀行(現:三菱UFJ銀行)からの融資も容易になっており、経営難を乗り越えることができていた。円谷皐は、この状況を快く思っていなかった。
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