東宝への入社
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1939年(昭和14年)10月27日を以て、東宝砧撮影所に見習い入社し、円谷英二を課長とする特殊技術課に配属される。特殊技術課には同期として、川上に先駆けて6月に鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社している。 1940年(昭和15年)、『燃ゆる大空』(阿部豊監督)に参加。 1941年(昭和16年)、特殊技術課内の、三谷栄三を主任とする合成作画係に異動。同僚に向山宏がいる。この年日本は第二次世界大戦に参戦、軍部の意向によって東宝は「戦意高揚映画」を量産することとなった。必然的に空・海戦のミニチュア特撮の需要が高まり、円谷以下特殊技術課は大車輪で稼働することとなる。 この年、『上海の月』(成瀬巳喜男監督)、『八十八年目の太陽』(滝沢英輔監督)などの作品に参加。 1942年(昭和17年)、特撮キャメラマンに転身。円谷の愛弟子としてミニチュア、光学合成、撮影など、特撮の技法を学ぶ。『南海の花束』(阿部豊監督)、『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督)などを担当。 東宝の特撮を駆使した戦意高揚映画の好調ぶりを見た松竹映画松竹蒲田撮影所所長の城戸四郎は、自社の特撮部門の強化を画策。高給を条件に東宝特技課スタッフの引き抜きを図る。
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