東学の分裂と後裔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:01 UTC 版)
東学党教祖は孫秉煕が引き継ぐこととなった。孫は李祥憲の名で日本に渡り、開化派と接触しながら「道戦」「財戦」「言戦」の三戦論を提起した。そして、1904年、権東鎮、呉世昌らと政治団体「進歩会」を結成し、その実務を李容九にまかせた。しかし、李容九は宋秉畯と結んで親日的な団体「一進会」を創設し、日本との協調を主張した。これに対して、孫秉煕は1905年12月1日、「天道教」を宣布し、東学の正統な教団であることを主張した。李容九は1906年に「侍天教(朝鮮語版)」を再興させ、ここで東学は「天道教」と「侍天教」に分裂した。 「天道教」はその後、三・一独立運動を経て愛国啓蒙運動の一翼を担い、「侍天教」は一進会の組織の中で親日的な活動を展開した。 2010年代現在、韓国には天道教の教会がおよそ100ヶ所あり信者数は10万人を数える。また北朝鮮には280万人の信者がいるとされ、天道教青友党という政党が朝鮮労働党の衛星政党として存在している。また日韓併合以後、日本にも伝わったものの布教には消極的だったとされ、現在は神戸市長田区にのみ教会が存続している。
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