東大紛争下における混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 01:08 UTC 版)
「東京大学総合図書館」の記事における「東大紛争下における混乱」の解説
1968年(昭和43年)には、いわゆる東大紛争が勃発し、医学部を筆頭に多くの学部において授業が中止となり、学生らによる建物の封鎖も相次いだ。東大紛争の情勢として、大学執行部側がしばしば強硬な姿勢を示したことに対して全共闘は特に強く反発し、またしばしば譲歩の姿勢を見ぜる民青などとも激しく衝突していた。1968年の後半には泥沼化した紛争に疲弊し、学生の中では紛争の解決を求める風潮が起こり、それを受けて民青の主導する東大民主化行動委員会を学生の代表として大学当局との折衝に当たろうとしていた。全共闘側はこれを闘争収拾策動として激しく批判し、さらなる強硬化、ゲバルト化を加速した。全共闘派はもはや、「一般学生」を収拾を策動する敵として切りはなし、批判することを憚らなくなっていた。その中で行われたのが11月22日「東大日大闘争勝利時計台前総決起集会」であり、集会に引き続いて全門と図書館の封鎖を掲げた「全学封鎖闘争」が目論まれ、予告された。 これに対して収拾派は本郷正門で11時に「封鎖阻止法実委独自集会」、12時には図書館前で全東大総決起集会などを行うことが予告し、全共闘による全学封鎖を抑止しようとしていた。だが全共闘はこの裏をかき、22日の午前中に武装した集団によって図書館の封鎖を完了した。 この封鎖によって総合図書館は閉館を余儀なくされた。一部の室は封鎖されずに残されたため、最小限の事務は地階に置かれた仮事務室で行われることとなった。また、有斐閣の好意によって大学近くの白山某所に作業場が用意され、受入れ等の業務が行われた。全共闘の建物封鎖にあっては、マイクロフィルムを燃やすなどの蛮行が横行して大きな被害を生ぜしめた法学部研究室のような例もあったが、このような例と比べると総合図書館では秩序が保たれ、破壊行為が行われることもなく粛々と封鎖が行われた。封鎖を行う学生と当時の附属図書館長伊藤四十二との会見の場も持たれ、その際伊藤が提示した「(1)重要箇所は施錠し何人も立ち入らないよう責任をもって監守し、それぞれの室の扉にはその旨の張り紙をする。(2)施設・設備は損傷しない。(3)火気には十分注意をする。(4)鍵をこわさない。(5)私物には手を触れない。(6)近日中にあらためて打ち合わせの会談を行なう。」といった遵守事項は受諾された。その上で伊藤自身の手によって、書庫、参考室、整理課室、総務課室、館長室、秘書室、事務部長室、開架閲覧室、外国資料センターおよびアジア資料室、教官個室が施錠された。その後11月25日には正門前にあった喫茶にんじんで、全共闘代表の山本義隆と総合図書館事務部長の颯田大通との面会の場が設けられたが、封鎖解除の交渉は決裂した。 翌1969年(昭和44年)1月11日には、紛争収拾を目指す団体交渉実現実行委員会(団交委)に結集した学生を中心にして、本郷キャンパスの多くの建物の封鎖が解除され、総合図書館の封鎖も解除された。1月24日の総合図書館運営委員会において、伊藤館長は封鎖期間中における器物の損傷などが一切なかったことを報告している。また全共闘との交渉にあたった颯田事務部長も、封鎖によって事務作業の停滞や企画の延期といった影響を受けたことは遺憾としながらも、回想にて「全共闘の諸君も館長との協定をよく守ってくれ、図書館の意義についても若干の理解を示してくれた」と評している。このように封鎖における図書館の直接的な物的被害は無かったものの、暖房工事に遅れが生じたために再開館は翌月にずれこみ、2月5日に2ヶ月ぶりの開館を果たした。この段階では学内情勢が必ずしも安定していなかったことから、9時30分から16時までの短縮開館としたほか、封鎖期間中の業務停滞や同時期に行われていた改修工事の都合などから、雑誌閲覧室や開架閲覧室なども休止し、その後徐々に再開をしていった。 館長として紛争対応にあたった伊藤四十二は、定年のため規定によって1969年(昭和44年)の3月に館長の職を退いている。
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