春団治襲名まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 03:07 UTC 版)
「桂春団治 (3代目)」の記事における「春団治襲名まで」の解説
2代目桂春団治は実父、河本寿栄は義母。実母とは死別している。兄が早世したため、長男の扱いであった。 浪華商業学校(現在の大阪体育大学浪商高等学校)では野球部で夜まで練習する生活を送った。卒業後、兵庫県宝塚市の自動車部品販売会社でサラリーマンとなる。本人にも父にも落語家の道に進む考えはなかった。短期間で退職(上司との喧嘩が原因という)後に自宅にいたところ、父の九州巡業(漫才師・浪曲師・奇術師などと一座を組んで公演していた)に、荷物持ち兼雑用係として同行した。劇場で常に客席に待機している間に、父の持ちネタである「寄合酒」を聞き覚える。博多の公演で急病になった漫才師の穴埋めとして舞台に上がり「寄合酒」を演じた。客からの受けはよかったものの、足がしびれて立ちあがれず、下りた緞帳の裏で這いながら袖に引き揚げたという。「落語家はええなあ」と感じて帰阪後に父に弟子入りを申し出る。約半年を経た1947年4月1日に正式に入門、「桂小春」を名乗った。 入門から半年後の1947年10月に、初代笑福亭松之助(のちの6代目笑福亭松鶴)が2代目旭堂小南陵(のちの3代目旭堂南陵)らとともに夕刊紙「新大阪新聞」の後援で始めた「落語新人会」に参加。当時上方落語家は10数人しかおらず、桂春輔が「楽屋に今、十人の噺家がいとりまっけどな、一年に一人ずつ死によったらもう落語はないねんさかいに、聞くねやったら今のうち」と枕で話すような状況であった。そんな中、ほぼ同時期に上方落語に入った小春・松之助(1948年から笑福亭光鶴)・桂あやめ(のちの5代目桂文枝)・3代目桂米朝・3代目桂米之助ら若手は複数の新人会に出演し、1948年秋に「さえずり会」というグループを結成した。この時期、上方落語界は一度戎橋松竹に結集しながら、5代目笑福亭松鶴と反目した丹波家九里丸が2代目春団治を誘って旗揚げした浪花新生三友派に分裂した状態だった。「さえずり会」は後援者からの指示を受けてこの修復に当たり、この際小春は父である春団治を説得している(同様に松之助から改名していた笑福亭光鶴は父の松鶴を説得した)。これにより、1949年4月に両者が合同する形で関西演芸協会が結成され、分裂状態が解消された。 1950年4月、2代目桂福団治を襲名。この年は初代春団治の17回忌に当たり、襲名興行は初代春団治の追善を兼ねておこなわれた。この興行に出演していた5代目松鶴は3日目で病に倒れ、3か月後に死去する。1952年3月からは、小林一三の後押しで始まった「宝塚若手落語会」に参加する。1953年2月25日に父の2代目春団治が死去。1953年に笑福亭光鶴が4代目枝鶴を襲名する際に、枝鶴とともに宝塚落語会を脱会して戎橋松竹に戻っている。 1957年に結成された上方落語協会では枝鶴・米朝・3代目桂小文枝(桂あやめより改名)らとともに幹事の一人となる。この頃、この4人に3代目林家染丸を加えた5人を「上方落語五人男」と呼ぶようになり、やがて染丸を除いて「上方落語の四天王」という呼び方がなされるようになった。
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