浪花新生三友派とは? わかりやすく解説

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浪花新生三友派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 22:57 UTC 版)

三友派」の記事における「浪花新生三友派」の解説

太平洋戦争後、大阪には常設演芸場がない状態だったが、1947年昭和22年9月に、松竹白井松次郎決断により、映画館改装する形で戎橋松竹開場し、ここに主な上方落語家結集した。しかし、戎橋松竹番組編成にも大きな影響持っていた漫談家丹波家九里丸と、落語家中心だった5代目笑福亭松鶴との間に確執生じる。九里丸は、「羽振りがいいのは支配人結託しているからではないか」と持ちかけた2代目桂春団治相談してを「追い出しかかろうとした(6代目笑福亭松鶴5代目実子)の証言)」。九里丸が自分贔屓女性漫才師台割り優遇したことに他の芸人から反発出て、それに怒った九里丸に編成から下ろす発言したことも対立助長した。6代目によると、九里丸は「反松派」を集めて連名の「血判状」を作り戎橋松竹運営側に「辞めるやったらええけども、そやなかったら私ら辞めさせてもらいます」と迫った1948年昭和23年3月1日京都市新京極の「富貴」が寄席として開場し関西では「戎橋松竹」に次ぐ演芸場となった。これを契機九里丸や春団治らは戎橋松竹脱退し、「浪花新生三友派」を旗揚げした。浪花新生三友派に加わったのはほかに4代目桂米團治4代目桂文團治4代目桂文枝橘ノ圓都2代目文の家かしく上方。のち3代目笑福亭福松)・橘家小圓太であった4代目弟子であった桂あやめ(のちの5代目桂文枝)は、について勉強したい申し出て、文相談した結果、浪花新生三友派には加わらず戎橋松竹に残ることになった2代目春団治は「寄席増えてきたら吉本さん手を出しはるやろう、そうなった時、もう芸人泣かされる中間搾取許したくない、東京のように芸人芸人同士手を握ろう」という考え抱いて参加したという。浪花新生三友派は富貴および神戸市兵庫区の「寄席パレス」を中心に大阪名古屋富士劇場)など複数劇場拠点とした。なお、九里丸は正式な旗揚げ以前同年正月頃)から、会派としての実態がない状態で「浪花新生三友派」の名称を、戎橋松竹以外での興行(「寄席パレス」や天満新劇場)に使っていた。 しかし、6代目によると九里丸が「相変わらずおなごにうつつを抜かしている」こともあってトラブル頻発し参加した芸人少しずつ戎橋松竹戻っていったという。この状態で、若手落語家集まりだった「さえずり会」がその後援者からの命を受けて関係の修復動き実子である笑福亭光鶴(のちの6代目)・春団治の実子である桂小春(のちの3代目桂春団治)がそれぞれ親を説得したこのあと・春団治に仲介役の2代目旭堂南陵(彼も実子旭堂小南陵(のちの3代目旭堂南陵)から説得受けた)を加えた3人の話し合い持たれ和解至った1949年昭和24年4月23日、両派が合同した関西演芸協会設立された。 このように分裂短期間収束したが、再び戎橋松竹番組復帰した九里丸は5代目没後に、分裂時に同調しなかった桂あやめ戎橋松竹から締め出す意趣返し」をおこない、あやめはいったん歌舞伎に行くことを余儀なくされた。

※この「浪花新生三友派」の解説は、「三友派」の解説の一部です。
「浪花新生三友派」を含む「三友派」の記事については、「三友派」の概要を参照ください。

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