浪花公会
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1876年12月に大阪でアメリカン・ボードの宣教師特別会議が開かれて、ゴルドンから新しい教会が組織される場合は、沢山に按手礼を施して、牧師として就任させようという発議あって、一同が承認した。そして、沢山を最初から正式な牧師として招聘することと、ボードが沢山に副職を与えることが決められた。 1877年1月20日松村診療所を仮会堂として、12名の教会員により浪花公会(浪花教会)が設立された。会衆政治に則り、日本最初の按手礼を含む公会設立式が執り行われ、牧師となる。同日、沢山により、綱島佳吉らの洗礼式が執り行われた。 自身も診療所で働き、教会費自給による運営を試みる。この教会形成が日本組合教会の基盤を作った。 1877年7月妹のいまが吉敷で結核で死去した。葬儀のために帰京した沢山は、成瀬仁蔵という青年の訪問を受けた。成瀬は沢山に心酔して、沢山に同道して、神戸に滞在した。同年11月に成瀬は沢山から洗礼を受けた。 1878年1月に梅花女学校の校舎に、九公会の代表18人と信徒200人が参加して集会が開かれ、日本基督伝道会社が設立された。沢山は新島襄、今村謙吉と共に初年度の委員に選出された。 1878年7月に東京で行われた第一回全国基督教信徒大親睦会に出席し、押川方義、フルベッキらと共に近況報告をした。
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