浪花館の時代とは? わかりやすく解説

浪花館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 01:03 UTC 版)

明洞劇場」の記事における「浪花館の時代」の解説

1917年大正6年)、日本統治する朝鮮京城府明治町1丁目65番地現在の大韓民国ソウル特別市中区明洞1街65番地)に寄席浪花座として開館する同地域は、清渓川南側南村呼ばれる地域位置する日本人街であり、明治町通(現在の明洞通り朝鮮語: 명동길、ミョンドンギル)に面していた。当時経営者後藤卓三である。やがて浪花館と改称する三代目三遊亭金馬1959年昭和34年)に著したエッセイ集『浮世だんご』に収録された『旅の恥』には、全国寄席列挙する部分があるが、同府内で1軒のみ挙げられている「浪花館」が、この時期の同館である。 1935年昭和10年)には映画館業態変更しこのころには煉瓦二階建建物改築している。欧米からの輸入映画洋画)を興行する映画館であり、南村日本人街では初めての洋画専門館であり、当初からトーキー装置備えた近代的な映画館であった同年10月には、同館の斜め前北東側)に鉄筋コンクリート造近代建築による明治座明治町1丁目54番地現在の明洞1街54番地)が着工、翌1936年昭和11年)には竣工開館している。のちに取り壊された同館とは異なり明治座建物は、現在も復元リニューアルされて明洞芸術劇場として使用されている。 1939年昭和14年)には洋画加えて松竹キネマ作品上映し始めた第二次世界大戦始まり戦時統制敷かれ1942年昭和17年)、日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、映画館経営母体かかわらずすべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。同資料によれば当時の同館の経営西田昇の個人経営であり、支配人には名がない。観客定員数は350名であり、1,000規模映画館立ち並ぶ府内では小さいほうの映画館であった

※この「浪花館の時代」の解説は、「明洞劇場」の解説の一部です。
「浪花館の時代」を含む「明洞劇場」の記事については、「明洞劇場」の概要を参照ください。

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