浪花館の時代
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1917年(大正6年)、日本が統治する朝鮮の京城府明治町1丁目65番地(現在の大韓民国ソウル特別市中区明洞1街65番地)に寄席浪花座として開館する。同地域は、清渓川の南側、南村と呼ばれる地域に位置する日本人街であり、明治町通(現在の明洞通り、朝鮮語: 명동길、ミョンドンギル)に面していた。当時の経営者は後藤卓三である。やがて浪花館と改称する。三代目三遊亭金馬が1959年(昭和34年)に著したエッセイ集『浮世だんご』に収録された『旅の恥』には、全国の寄席を列挙する部分があるが、同府内で1軒のみ挙げられている「浪花館」が、この時期の同館である。 1935年(昭和10年)には映画館に業態を変更し、このころには煉瓦二階建の建物に改築している。欧米からの輸入映画(洋画)を興行する映画館であり、南村の日本人街では初めての洋画専門館であり、当初からトーキー装置を備えた近代的な映画館であった。同年10月には、同館の斜め前(北東側)に鉄筋コンクリート造の近代建築による明治座(明治町1丁目54番地、現在の明洞1街54番地)が着工、翌1936年(昭和11年)には竣工、開館している。のちに取り壊された同館とは異なり、明治座の建物は、現在も復元リニューアルされて明洞芸術劇場として使用されている。 1939年(昭和14年)には洋画に加えて松竹キネマ作品も上映し始めた。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。同資料によれば、当時の同館の経営は西田昇の個人経営であり、支配人欄には名がない。観客定員数は350名であり、1,000名規模の映画館が立ち並ぶ同府内では小さいほうの映画館であった。
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