春団治襲名後
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「桂春団治 (3代目)」の記事における「春団治襲名後」の解説
1959年3月、3代目桂春団治を襲名。この3年前に初代春団治を描いた映画『世にも面白い男の一生 桂春団治』(監督:木村恵吾、主演:森繁久彌)が公開されたことがその背景にあり、花月亭九里丸(丹波家より屋号を変更していた)からは「今が襲名のチャンスやで」とバックアップを受けた。襲名披露に先立ち、初代春団治の伝説にちなんだ朱塗りの人力車(詳細は初代春団治の項「人物・エピソード」参照)を赤半纏の車夫が引き、自らも赤系の着衣という「赤づくし」の姿で挨拶回りをした。同年10月には襲名披露を兼ねる形で東京の寄席(鈴本演芸場・新宿末廣亭・人形町末廣)に出演した。このように、当時の上方の落語家として早くから上方落語の関東への普及に務めた。 1977年、体調不良(高血圧)で辞任した笑福亭松鶴の後任として上方落語協会会長に就任する(1983年まで)。1981年には関西演芸協会会長にも就任した。しかしこの年、胃潰瘍を患う。1984年、上方落語協会会長退任とともに相談役となる。 1992年にはC型肝炎に罹患。 1996年3月に「芸能生活五十周年記念落語会 春團治まつり」を道頓堀の中座で開催した。落語と舞踊の二部構成で、二部で初の女形舞踊「梅川」を披露している(大阪のほか、東京・広島・内子町でも開催)。50周年記念としてはこのほかに記念パーティー(天王寺都ホテル)や、写真集(後藤清『三代目桂春團治』)・研究書(豊田善敬(編)『桂春団治 はなしの世界』)も刊行された。 2006年には「芸能生活60年 繊細・華麗 三代目桂春団治 極付十番落語会」を開催する。同年9月15日、常設寄席「天満天神繁昌亭」のこけら落としを記念して、「赤い人力車」の復元版に、桂三枝(現・6代桂文枝)が車引きを務める形で乗り天神橋筋商店街でパレードをおこなった。この企画を三枝が打診した際、「実は、わしもいっぺん乗ってみたかったんや」と答えたという。前記の通り、「赤い人力車」自体には3代目春団治襲名時にも乗っている。「四天王」の中で「繁昌亭」の高座に上がった唯一の人物でもある。 同年9月30日には初主演映画「そうかもしれない」(監督:保坂延彦)が公開された。この映画により、翌2007年におおさかシネマフェスティバル主演男優賞を受賞している。2008年には映画「人のセックスを笑うな」(監督:井口奈己)にも出演した。 2008年3月28日には、喜寿を記念して「喜寿記念 桂春團治落語会 -東西華の宴-」が開催される(30日まで)。 晩年には上方落語界の最古参で、幕内では桂米朝を「米朝くん」、笑福亭松之助を「松ちゃん」と唯一言える噺家であった。 2013年5月ごろから体調を崩し、療養中であった。その前後には爪を痛めたり、転倒での肋骨のひびなどで高座から離れていたが2015年10月3日、出演予定であった堺市立東文化会館で行われる「桂春団治生誕85年記念 三代目桂春団治一門会」のトークコーナーも直前に欠席した。 2015年3月に3代目桂米朝が死去した際には「僕にとっては『代書屋』『親子茶屋』を教えてもらい師匠のような存在。残された四天王も僕ひとりになり、寂しい思いでいっぱいです」というコメントを出した。この米朝追悼のコメントにある通り「四天王」の最後の存命者であったが、米朝の死去から10か月後の2016年1月9日に心不全で他界した。85歳没。没後の1月26日に天満天神繁昌亭にて、6代目桂文枝を葬儀委員長として3代目春団治の上方落語協会葬が執り行われた。
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