日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 14:37 UTC 版)
「仏印進駐」の記事における「日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定」の解説
1940年(昭和15年)9月27日、日本はイギリスと戦争状態にあったドイツおよびイタリア王国との間で日独伊三国条約を締結したことによって同盟関係を築き(日独伊三国同盟)、アメリカ合衆国の警戒心を招くことになった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。また援蔣ルートとしてはイギリス領ビルマのビルマ公路などを利用することで、蔣介石への援助を続けた。この経済制裁政策はフランス領インドシナにも及び、フランス領インドシナ政府が求めていた武器支援をもアメリカ側は拒絶した。翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。 主要な資源供給先であるアメリカやイギリスの輸出規制により、日本は資源の供給先を求めることになった。対象としてあげられたのはオランダ領東インドであったが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に参加する可能性も懸念されていた。日本はオランダ領東インド政府に圧力をかけて資源の提供を求めたが(日蘭会商)、この行動はかえってオランダを英米に接近させることとなった。 日本は、蘭印と石油200万トンの供給量で合意した。この量は、当初の希望量の2倍であった。しかし1941年6月17日、日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した。 陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった。経済的側面以外では、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、そしてオランダ領東インドに軍事的圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蔣ルートの遮断も行えると考えられた。当時陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことからみて、南部仏印への進駐は、米英の反発を招かないという見通しを立てていた。 松岡外相は当初、南部仏印の進駐を前提として交渉するのは得策ではないとしたが、やがて強硬論に同調するようになり、6月25日の大本営政府連絡懇談会において南部仏印への進駐が決定された(南方政策促進ニ関スル件)。 ところが6月22日に勃発した独ソ戦の緒戦の状況が伝えられると、松岡外相はソビエト連邦への攻撃を主張するようになり、南部仏印進駐の延期を主張して陸海軍首脳と対立するようになった。松岡外相は、大本営陸軍部の『機密戦争日誌』にも「節操ナキ発言言語道断ナリ」「国策ノ決定実行ニ大ナル支障ヲ与フルコト少カラズ」とあるように激しく批判され、結局、6月30日に原案通り南部仏印進駐を行うことが決定された。 1941年7月2日の御前会議において仏印南部への進駐は正式に裁可された。(『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』)。しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れている。日本側は情報漏洩に驚き、進駐準備の延期を行ったが、イギリス側も日本を刺激することを怖れ、これ以上の警告を行わなかった。7月14日には加藤外松駐仏日本大使がヴィシー政府副首相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可を求めた。ヴィシー政府はドイツの意向を探ろうとしたが、おりしも駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ(英語版)は旅行に出かけており、不在であった。フランス政府はドイツ側と協議することなく、7月19日の閣議で日本側の要求を受け入れることを決定した。 フランス領インドシナ軍が日本軍に対して劣勢であることは明かであり、決定的な敗戦を迎えれば植民地喪失の危険性があった。また松岡外相は、同様にヴィシー政府の植民地であったフランス委任統治領シリア・フランス委任統治領レバノンが連合国の攻撃によって占領された事態を匂わせてフランス側を説得しようとした。また日本に対して強い影響力を持つドイツや、アメリカなどの中立国がこの事態に介入してくれる可能性も皆無であり、植民地の継続には日本軍にすがるほか無かった。こうしたことがフランス側の極めて早い受諾回答の背景にあった。 一方でイギリスとアメリカはこの間に協議を進めた。7月21日までの段階で、イギリス外相ハリファックス伯とディーン・アチソン国務次官は、日本が南部仏印進駐を行った場合には、共同して対日経済制裁を行うことで合意した。
※この「日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定」の解説は、「仏印進駐」の解説の一部です。
「日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定」を含む「仏印進駐」の記事については、「仏印進駐」の概要を参照ください。
- 日米関係の悪化と南部仏印進駐の決定のページへのリンク