日本におけるピッケル
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日本で最初にピッケルが使われたのはアーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレン、ウィリアム・ゴーランドなど明治時代の外国人が持ち込んで使用した例である。またウォルター・ウェストンも1888年(明治21年)の第一回来日以来たびたびピッケルを携えて日本アルプスを登山しており、写真も残っている。 1908年(明治41年)、東京地学協会会館で日本山岳会第一大会が開催され若干の登山用具が展示されたが、その中に「氷河渡りの杖」として山崎直方のピッケルがあり衆目を集めた。ただしこの時「ピッケル」とも「アイスアックス」とも表記されなかった。この時辻本満丸の錫杖が同時に並べられ、好対照を示して珍妙を極めたという。このピッケルを日本山岳会の会員であった三枝威之介が借用、これをモデルとして友人の中村清太郎にアックス部分と石突きを打たせ、柄は江戸橋の棒屋に作らせ、これが第一号の国産ピッケルとされる。1910年(明治43年)夏に彼等は後立山連峰の縦走にこのピッケルを携え、扇沢の雪渓で有効に使ったという。 しかし日本でピッケルが知られた頃は登山と言えばその多くは夏山に限られており、ピッケルの需要も少なかった。積雪期にも登山が行なわれるようになり需要と供給は増大したが、それでも本当に必要とする人は少なかった。 輸入に先鞭をつけたのは日本山岳会創始者の一人である高野鷹蔵で、「これは本業でなく余業であるから薄利で提供する」と断りつつも1912年(大正元年)発行の『山岳』第七年第三号に「登山用具の輸入と販売」と題し「ティロールの本場で一々人の手で、打った上等の品」「嘴の長さは六寸位、柄の長さは三尺三寸から三尺六寸位まで」「八円位から十五円位まで」という広告を掲載し、品物は1913年(大正2年)6月に入荷した。また東京本郷の赤門前にあった美満津商店が高野鷹蔵協力の下で積極的に登山用具の販売を始めた。この頃から日本でも夏山だけでなく急峻な雪渓も登られるようになってピッケルの存在も機能も理解され始めていた。 1921年(大正10年)には大阪堂島のマリヤ運動具店が誕生、スイスからヘスラーを輸入した。また1924年に好日山荘ができ、1926年から数年の間にスイスのヒュップハウブ、シェンク、ベント、ウィリッシュ、フランスのシモンを順次輸入した。 1930年代になると三越がスイスのビヨルンスタットを輸入、世界の有名ブランドから選べるようになった。 初期の国産ピッケルは金剛杖に鳶口と石突を取り付けた程度のもので、ほとんど杖に近いものだった。1895年に厳冬期の富士山に登頂した気象学者の野中至は鳶口や鶴嘴をピッケルの代用として使用している。1929年に仙台の鍛冶職人、山内東一郎が数年前から試作を繰り返していた独自のピッケルを商品化し、これが国内における本格的なピッケルの草分けとなった。1930年には札幌の農具鍛冶職人、門田直馬が学生に請われたことがきっかけでピッケルの生産を開始し、輸入品が次第に店頭から姿を消したこともあり山内、門田は多くの岳人に愛用された。 第二次世界大戦後最初に輸入されたのは戦後数年して美津濃(現・ミズノ)が輸入したウィリッシュであり、当時の価格は6000円であった。 戦後はフランス製ではシモン、シャルレなども人気があり、国産では森谷がマナスルや南極大陸の遠征で使われたほか、ダイナミックスノーマンや東京トップなども多く愛用された。先鋭的な登山家は鍛冶職人と二人三脚で自分専用のものを作り上げることもあり、特に二村善一のピッケルは長谷川恒男や田部井淳子といった登山家に信頼を寄せられていた。
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