日本におけるフィルム・コミッション設立前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 02:13 UTC 版)
「フィルム・コミッション」の記事における「日本におけるフィルム・コミッション設立前史」の解説
日本では、群馬県高崎市で地元住民も参加して撮影された今井正監督作品『ここに泉あり』(1950年)や、大林宣彦が1980年代に、故郷・尾道で多くの地元賛同者の協力を得て撮影した「尾道三部作」(『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年))が、フィルム・コミッションの先駆けとされる。 ただし、生前の大林の発言によると、このような地元の協力事例は、アメリカにおけるフィルム・コミッションとは似て非なるものだという。 日本国内向けのCM撮影の監督を多く務め、アメリカロケの豊富な実務経験を有していた大林によると、フィルム・コミッションのルールで最も重要なのは「映画の内容に関しては一切物申しはせず、脚本に書かれていることは全て実現する」という点である。アメリカでは、仮に映画ロケにより街の施設が破壊されたとしても、潤沢な予算を持つ映画制作サイドがロケの終了後に修復を行い、むしろ以前存在した施設よりも立派なものを作るということが社会的に許容されている。 しかし、邦画の制作にかけられる予算はアメリカのハリウッド映画と比べるとはるかに少ないため、日本の場合、アメリカとは逆に地元からタイアップを始めとした支援をしてもらわなければならない状況であった。この点は、日本でフィルム・コミッションが設立されるようになってもほぼ同様である。 大林は生前、「アメリカと日本では国状も映画の存在の意味も異なるから、「フィルムコミッション」という呼び名をそのまま日本で使うのは誤解の元で、国際的な混乱を招くから、違う名称を考案したほうが良いよ」と主張していた。
※この「日本におけるフィルム・コミッション設立前史」の解説は、「フィルム・コミッション」の解説の一部です。
「日本におけるフィルム・コミッション設立前史」を含む「フィルム・コミッション」の記事については、「フィルム・コミッション」の概要を参照ください。
- 日本におけるフィルム・コミッション設立前史のページへのリンク