新関脇場所以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 12:40 UTC 版)
2017年1月場所は新関脇(東関脇)に昇進。初土俵から所要77場所、新入幕から所要49場所はいずれも史上5位タイのスロー昇進で、モンゴル出身では照ノ富士以来9人目の新関脇である。新番付発表日の2016年12月26日、片男波部屋で昇進記者会見に臨んだ玉鷲は「めったに上がれない地位。夢がかない興奮してくる」と腕まくりし、次の1月場所へ向けて「こんな力士がいるということをもっと見せたい」と意気込んだ。会見に同席した師匠は「今まで上半身の力は強かったが、下半身が使えておらず、もったいなかった。それが名古屋場所の途中で左ひざを痛めて腰が高いままでは相撲が取れなくなり、下半身をしっかり使うようになったのだと思います」と躍進の理由を話し、玉鷲には「(地位を)意識しなければ勝ち越せる」と期待を寄せていた。挑んだ2017年1月場所では10日目に横綱・鶴竜に突き出しで勝利するなど好調。12日目には角番の大関・琴奨菊を押し出して勝利し、関脇陥落を決定させる8敗目となる取組となり玉鷲が大関からの引導を渡す形になった。この取組について玉鷲は「涙が出そうだった」と声を詰まらせ、二所ノ関一門である大関とは「十数年一緒に戦ってきた」という間柄だが「勝負の世界」と情け無用で一番に臨んだとのこと。玉鷲は「悲しいより、いい方に考える」と前向きに捉え、琴奨菊については「次の場所頑張って、絶対また上がってくる」と話した。翌13日目は勢を得意の喉輪で押し出して8勝目を挙げ、新関脇の場所を勝ち越したと同時に自身初となる幕内4場所連続での勝ち越しとなった。 翌2017年3月場所は、6日目に大関豪栄道の休場による不戦勝を得た幸運も手伝って7日目まで5勝2敗と好調であったが、翌8日目から4連敗。しかし12日目に横綱・鶴竜を押し出しで勝利してから調子を取り戻し、14日目には横綱・日馬富士を押し倒して3連勝とし、再三役以降では3場所連続となる勝ち越しを決めた。また、幕内では初の5場所連続の勝ち越し。千秋楽は翌5月場所に大関獲りを目指す同じ関脇の髙安に敗れて8勝7敗。次の5月場所は、2日目に報道陣から「どちらが大関か分からない」と言われる程の好内容で大関・照ノ富士に快勝、6日目も5勝無敗で大関獲りに突き進む高安に土を付けるなど存在感は健在であった。この場所は11日目に勝ち越しを決めたが、その1番は横綱・稀勢の里が休場したことによる不戦勝であり、本人は「よく分からない感じ。自分の相撲までは休場しないでくれと思っていた」と複雑そうな気持ちであった。この場所は10勝5敗と自身初となる関脇の地位での2ケタ白星を収め、「一気に行けず、安全に取ってしまって負けたもったいない相撲も何番かあったけど、よかったよかった」とコメント。 7月場所は一進一退の星取りに終始し、千秋楽はこの場所好調の栃煌山と対決するも敗れて7勝8敗。連続勝ち越しは6場所でストップ。この場所の12日目に行われた白鵬戦ではこの時点で通算白星1位タイの1047勝目を白鵬に献上した。この取組で強烈な張り手で唇は切れ「勝ちたかった。もう1日延ばしたかった」と悔しがった。今後、この敗戦の映像が繰り返し流されることについては「いっぱい出てくるのは楽しみ。何回も見れて、いい勉強になる。20、30回見れば『なるほど』となる」とコメント、2016年9月場所に豪栄道に優勝を決められた自身の取組を、何度も目にして翌11月場所の勝ちにつなげただけに「次に当たるときはだいぶ良くなる」と豪語した。9月場所は2日目の高安戦で右足首をひねり、花道を引き揚げる際には右足を引きずっていた。2日目の支度部屋で玉鷲は「足の状態は秘密。プロなのでそれなりに戦っていく」と話した。この場所は7勝8敗の負け越し。10月6日の秋巡業横浜場所では幕下のぶつかり稽古で胸を出し、13番押させるだけ押させるようなけいこをこなしていた。 2017年11月場所は、初日に稀勢の里から金星を上げるスタートを切る。3日目の日馬富士戦は不戦勝。5日目は自身の誕生日であり、この日は場所を角番で迎えた髙安から白星を挙げた。14日目と千秋楽は優勝争いしていた隠岐の海と北勝富士に連勝し、幕内で過去7度あった10勝を上回る11勝4敗の好成績で場所を終えた。2018年1月場所は西関脇の地位を与えられたが、この時33歳1ヶ月であり、この時点で外国出身力士の高齢三役昇進記録第4位の記録を達成。高齢関脇昇進記録としては第2位。場所では11日目にここまで全勝を維持していた横綱・鶴竜を破る殊勲の星があったが、全体としては振るわず6勝9敗の成績だった。西前頭筆頭で迎えた3月場所は、初日に大関・豪栄道、2日目には先場所優勝した関脇・栃ノ心を破るなどで9勝6敗の成績を挙げた。しかし三役から落ちる力士が1人しかおらず、東前頭筆頭の遠藤も9勝を挙げていたことで翌5月場所は東前頭筆頭で迎えた。序盤の上位戦では4日目に大関・豪栄道を2場所連続で破った以外は目立った活躍を残せなかったが、後が無くなった11日目から5連勝として8勝7敗の成績だった。7月場所は東小結に復帰。6日目に新大関となった栃ノ心を破るなど存在感を見せた。なおこの栃ノ心戦と、10日目の琴奨菊戦、12日目の千代の国戦の取組でいずれも相手力士が負傷し、翌日から休場に追い込まれたことで1場所で3人の力士を休場させるという珍しい記録を作った。この場所は8勝7敗と勝ち越しを決めた。8月18日、引退後に年寄名跡を襲名するために日本国籍取得の手続きを進めていることを公表した。東京・両国国技館で健康診断を受診後に「恩返しをしたい気持ちがある。でも、まだまだ先の話。今はできることをしっかりやって相撲を磨いていく」と話した。7月場所で両関脇も勝ち越したことで9月場所も東小結で迎えたが、序盤からの上位戦で7連敗を喫した。しかし8日目に横綱・稀勢の里を押し出しで破り、中日負け越しは回避した。しかし以降も調子が上がらず4勝11敗の大敗に終わった。玉鷲が二桁の負けを喫するのは関脇昇進後では初めてとなる。11月場所は西2枚目に下がったが9勝をあげた。
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