新制大学化と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:23 UTC 版)
「福島県立医科大学」の記事における「新制大学化と発展」の解説
予科は設置されたが、学部開設には再審査が必要であったため、県会の協力の下、文部省指定の大学規格を満たすように設備拡充が行われた。当時の所在地である杉妻町では県から土地が寄付され、福島市役所跡地も利用し、研究室・講堂・附属病棟が建設された。こうした甲斐あって1950年(昭和25年)に旧制福島県立医科大学の学部が正式に認可され、全国最後の旧制大学となった。県衛生部から看護婦養成所と高等厚生学院も移管された。 一方、1949年(昭和24年)には既に国立学校設置法が制定されおり、国立大学は新制大学へ順次移行していた。公立の本学も1952年(昭和27年)に新制大学認可、1955年(昭和30年)に6年制大学としての進学課程設置が認可され、さらに1961年(昭和36年)には大学院が併設された。こうして1950年代には新制大学・研究機関としての本学の内容が整えられていった。 1960年代は全国各地の大学で学生運動が激化するとともに、とりわけ医学部ではインターン制度への反対活動が一体となって教育現場は混乱を極めていた。本学も例外ではなく、1964年(昭和39年)には学生会によるインターン委員会が作られ、デモ活動などを通して抗議姿勢が示された。全国青年医師連合とつながりのある強硬派の中からは、1966年(昭和41年)春の医師国家試験を集団ボイコットする者も現れた。 1968年(昭和43年)の医師法改正によるインターン廃止後も、学生会を中心とした全共闘結成など運動は止むことがなく、秘密主義撤廃や一部の教授の退官などを求めて教授会との対立が続いた。1969年(昭和44年)の授業放棄・附属病院ストとそれに伴う附属病院への機動隊突入により緊張は頂点に達し、これ以降は学生・教職員の処分などで事態は収束へと向かったが、教育・研究・診療機能の著しい停滞とともに後々まで禍根を残す事件となった。 同年11月5日、大菩薩峠事件で複数の医科大学生が逮捕されたことを受け、同月15日、附属病院臨床集会室、学生寮などに家宅捜索が行われた。
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