新制大学移行にむけての抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:56 UTC 版)
「東京文理科大学 (旧制)」の記事における「新制大学移行にむけての抗争」の解説
戦後の1948年下村寅太郎教授の起草とされる「文理科大学宣言」が発表され大学再建の方針として「人文科学と自然科学との真の綜合大学たるの実を挙げ(中略)教養人としての教師を打出す」ことが掲げられると、戦前以来の文理大と高師・茗渓会との対立は再燃することとなった。そして学制改革において、東京文理大および東京高師が教員養成を中心とする旧制専門学校である東京農業教育専門学校・東京体育専門学校と合同し、新制大学が設立されることが決定される過程でこの学内抗争はいっそう複雑化した。文理大が一般教養と教職的教養を両立する「文理科大学」構想を掲げたのに対し、高師側は新大学を教員養成の最高機関とする「教育大学」構想を打ち出し両者ともに譲らなかった。結局、農教専・体専と連合した高師側は新大学の名称を「東京教育大学」とすることに成功したが、新大学の運営は文理科大学の教授陣によって独占されることになった。こうして、東京教育大は内部対立を抱えたまま多難なスタートを切ることとなった。
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