文化と出身者
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「ケーニヒスベルク (プロイセン)」の記事における「文化と出身者」の解説
ケーニヒスベルクは数学者クリスティアン・ゴルトバハと作家E.T.A.ホフマンの出身地であった。哲学者イマヌエル・カントも生涯をそこで過ごし、160㎞以上離れた所へは旅行に行かなかった。カントは16歳でケーニヒスベルク大学に入学し、46歳となった1770年にそこの形而上学の教授に任命された。そこで働く間、『純粋理性批判』や『人倫の形而上学』を発表した。1736年に、数学者レオンハルト・オイラーはケーニヒスベルクの橋の問題の基礎として街の島と橋の配列を用いた。そのことは位相幾何学とグラフ理論の数学的分岐に至った。19世紀にケーニヒスベルクは著名な数学者ダフィット・ヒルベルトの出身地となった。20世紀前半に表現主義の建築家として活躍し、日本に滞在したこともあるブルーノ・タウトの出身地でもある。 大部分の市民が使っていた方言は、低プロシア語であり、ケーニヒスベルクの有名な大衆料理にはケーニヒスベルガー・クロプセ(Königsberger Klopse, ケーニヒスベルクの肉団子)があった。 王の道 (Königstraße) には、400点以上の絵画の収蔵品がある芸術協会があり、およそ50点のイタリアの巨匠の作品や、若干の初期のオランダの作品があった。王の門 (Königstor) には、ボヘミア王オタカル1世、プロイセン公アルブレヒト、プロイセン王フリードリヒ1世の像があった。ケーニヒスベルクには、1875年に完成した階段らの港の美しい景色が見える素晴らしい取引所があった。鉄道通り (Bahnhofstraße) に沿って、有名な王立の琥珀作業所の事務所があり、ザームラントは「琥珀海岸」と謳われた。天文学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルを台長とした天文台や植物園、動物博物館があった。ヘイマーケット近くの「Physikalisch」には、植物や人類学的な収集物と有史以前の遺物が収蔵されていた。ヴィルヘルム時代に建設された2つの大きな劇場は、the Stadt Theatre と the Appolloであった。 市内のもっとも著名な建造物の一つにケーニヒスベルク城があり、以前はドイツ騎士団総長とプロイセン公の居城だった。1701年にフリードリヒ1世、1861年にヴィルヘルム1世が戴冠した宮殿教会やSchloßkircheがあり、ドイツ国の中で最も大きなホールの1つで、プロイセンの歴史博物館であったMoscowiter-Saal が城内にあった。 1544年にアルベルティナ大学(ケーニヒスベルク大学)がプロイセン公アルブレヒトによって設立された後、ケーニヒスベルクは教育の中心地となった。大学はケーニヒスベルク大聖堂の北東側にあった。大学の創立者の1人、リトアニアの学者 Stanislovas Rapalionisは、神学初の教授だった。 ドイツ語やポーランド語のプロテスタント系出版物多数が宗教改革を支持しているケーニヒスベルクで印刷された。特に小リトアニア地方(東プロイセンの東部一帯)出身のプロシア系リトアニア人によって、ケーニヒスベルクはリトアニア語の出版物の中心地となった。大リトアニアがロシア帝国の領土となり、リトアニア語での出版が禁じられたこともこの背景にあった。またカトリック信者の優勢な大リトアニアに対して小リトアニア地方はルーテル派に改宗した者が多く、ケーニヒスベルクではリトアニアの方言による祈祷書も印刷された。最初の非宗教的な内容のリトアニア語の本もこの地で出版された。Paul Friedrich RuhigとChristian Gottlieb Mielckeは政府の支持を得て、それぞれ1747年と1800年にリトアニア語の辞書を出版した。 ケーニヒスベルクで活動していたスポーツクラブには、VfB KönigsbergとSV Prussia-Samland Königsbergがあった。
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