救荒作物としての普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 20:02 UTC 版)
藩を挙げて栽培を奨励していた薩摩藩を除き、サツマイモはまず、民間の力で広まった。最初に本格的な栽培に成功したのは飢饉に見舞われることの多かった芸予地方とされ、その後も土壌や土地傾斜などが耕作に不向きなために食糧生産力が低い、すなわち気候異常などにより飢饉が発生し易かった土地を中心に救荒作物として普及していった。薩摩藩もまた、領内の半数を占めたシラス台地と呼ばれる、米作には不向きな土地があったことが奨励の主要因である。 薩摩藩以外で最初に栽培に成功したのは芸予諸島であるとされる。1711年(正徳3年)、六部僧として大三島から諸国行脚の道中に薩摩を訪れた下見吉十郎が、薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていた芋を、仏像に穴を空けてそこに種芋を隠すという手法で持ち出し、故郷である伊予国(現在の愛媛県)大三島での栽培を開始した。下見の妻の父である村上休広が琉球から持ち帰った芋を安芸国竹原で栽培したとする話も伝わる。 1715年(正徳5年)、対馬の郷士原田三郎右衛門が、薩摩国からサツマイモの種芋を持ち帰った。対馬国の地は全島の9割近くが山地であり、耕作面積が非常に狭いため、武士階級でも山野の食物を採集して食べていたほど食糧生産事情が悪かったが、サツマイモの普及によりこれが解消した。現地では「孝行イモ」とも呼ばれる。また、サツマイモを非常に手間をかけて加工し、「せん」と呼ばれる保存食を製造していた。この「せん」から対馬独特の団子や餅、ちまき、さらに「ろくべえ」と呼ばれる麺を作る。六兵衛は肥前国島原半島周辺と対馬にて作られているが、両者の関係はよくわかっていない。共通するのは他のサツマイモ産地と同様に「米作りに適した土地(土壌)ではなかった」という点である。 1716年(享保元年)、京都の薬問屋・島利兵衛(嶋利兵衛)という男が琉球から芋を持ち帰り、故郷の村で栽培に成功する。一説には禁を破ったため琉球鬼界ヶ島へ島流しとなり、許されて帰る際にこれまた禁を破って芋を持ち帰った、とされる。流刑先は琉球の他、壱岐・硫黄島・隠岐など諸説ある。村の名を取り「寺田芋」として名産地となった。利兵衛の墓は後年、和菓子司の手によって「琉球芋宗匠 島利兵衛」と刻まれた。このため同地では「青木昆陽の栽培より10年早い」ということを誇っている。 江戸幕府はこの頃既に救荒作物としてリュウキュウイモ(サツマイモ)の有用性を認識していたらしく、1723年(享保8年)に耕作に不向きで全島飢饉に陥ることが多かった八丈島にこれを導入しようとしている。同年の試みは失敗に終わったが、数年後の1727年(享保12年)に定着に成功した。1735年(享保20年)には伊豆七島に種芋を送り、栽培を推奨している。1811年(文化8年)には大賀郷の名主家の菊池武昌が新島から紅さつま芋を持ち込み、栽培した。さらに1822年(文政5年)には、武昌の息子の小源太がハンスという品種を導入したとされる。菊池親子の事績は、「甘藷由来碑」として残されている。 1732年(享保17年)、享保の大飢饉により瀬戸内地方を中心に西日本が大凶作に見舞われ、深刻な食料不足に陥った。しかしサツマイモを栽培していた伊予国大三島の周辺では餓死者が全く出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。 また、石見銀山では江戸幕府の代官であった井戸正明が年貢の減免、年貢米の放出、官金や私財の投入などを行った。大森地区(現在の島根県大田市)の栄泉寺で、薩摩国の僧である泰永から甘藷が救荒作物として適しているという話を聞き、種芋を移入。その年に種付けを試みたが、種付けの時期が遅かったことなどもあって期待通りの成果は得られなかった。しかしながら、邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛が収穫に成功。その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により、井戸正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っている。
※この「救荒作物としての普及」の解説は、「サツマイモ」の解説の一部です。
「救荒作物としての普及」を含む「サツマイモ」の記事については、「サツマイモ」の概要を参照ください。
- 救荒作物としての普及のページへのリンク