救荒書
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宝暦の飢饉をきっかけに、凶作時の食糧確保の方法が書かれた救荒書がいくつか刊行された。 『万世飢食松皮製法』 - 松皮餅の作り方を記した本。享保18年(1733年)5月に大坂の井上某が飢渇の患いから書き置いたものを、寛保3年(1743年)に江戸本船町の大蔵某が刊行した後、大坂の漢学者杉浦益が天明4年(1784年)に版行した。仙台藩江刺郡の大肝入の記録といわれる『飢渇巻』の中に「万世飢食松皮製法」の記載がある。仙台藩の『御用定留』によれば、宝暦5年の凶作を受けて、藩の江戸買物所御用達の今中九兵衛が松皮粮食の書物を版行したので、500冊を国元に送り、領内の郡方に配布したとある。 『民間備荒録』 - 一関藩の医者・建部清庵が飢饉の後に著した救荒書。『日本農書全集』18、『日本経済叢書』八、『仙台叢書』の四、『日本経済大典』一一、『仙台叢書』一〇に収録。飢饉に備えて植えておくべき植物と食料の蓄え方について書かれた上巻と、草木や葉の食べ方や解毒法を中心に飢餓に対する救済処置について書かれた下巻とで構成される。後に版を重ねて発行され、救荒書の原点的位置を占めることになる。寛政8年(1796年)刊行。 『備荒草木図』 - 建部清庵が宝暦の飢饉の際に、村役人や老農から聞いて書き集めた、糧として用いて益の多かった草木に関する書。食べられる野生植物を精細な生写図によって判別できるようになっている。清庵と杉田玄白の子により天保4年(1833年)に刊行。 『荒歳録』 - 江刺郡岩谷堂の大肝入・遠藤志峯による、非常食について記した書。 『仙台飢饉巻』『御用定書』 - 仙台大町五丁目大内家の記録と、磐井郡東山北方大肝入鳥畑家文書。上胆沢新里村の卯左衛門が宝暦5年9月2日に「存寄」をまとめた「粮」の用い方が記されている。凶作の際に草木の根や葉を食べてきたが、それらの毒にはそれぞれ除去法があり、それを知っていた者は助かり、そうでない者は死んでいったとある。 このほか、仙台藩では代官が村の大肝入に江戸から送られてきた「松皮粮用」という書物を困窮する村々に配布するように指示するなど、官から民へ食用としての松皮を食糧とするための製法知識が各村にまで周知された。菊池勇夫は、このような非常時の食に関する民間知識をまとめて、村の肝入や代官たち地域行政官によって共有知として地域に広めようとする動きは、宝暦の飢饉をきっかけとしてはじまったとしている。
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