救護・養育の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 01:55 UTC 版)
日本での捨て子の最も古い記録は『日本書紀』に、「676年に今年は凶作であったため、子供を売る許可が欲しい」との要請を朝廷は許可しなかったが、15年後に「黙認する方針に変更した」と記載されている。子売り・子殺しの懲罰は、757年の養老律令に記載されており、子供の同意があれば売って良しとされ、親は杖で百叩きですんだ。 日本の近世社会においては、徳川時代後期の京都冷泉町に伝わった捨子関係文書(冷泉町文書)に拠れば、都市社会で捨子が発生した場合には町奉行所は直接的な救済を行わず、町の責任で里親希望者を募集し、里親が見つかるまでは町での養育を義務付けられている。里親は希望する理由を審議され、奉行所から許可されると請人や親分などの保証人を立て、遊女奉公へ出さないことなど誓約を取り決めた後に養子として引き取られている。 福岡藩でも捨て子が社会問題となったが、藩の対応として、「養育目付」という役職を設置し、産婆などの協力を得、妊娠中の女性を監視し、出産後も子育てを行っているか見張った(水戸計 『江戸の大誤解』 彩図社 2016年 p.124)。また、里親が捨子を引き取る際には持参金や衣類が町から支出されており、捨子が発生した際には町に様々な負担が存在し、この負担を軽減させるために里親養子制が確立していったと考えられている。 ヨーロッパでは、拾われた子は、奴隷、または家事使用人、軍隊、または教会で育てられ、それぞれの養育先で奉公した。この慣習は、西ゴート法典(英語版)などに、発見者は連れ帰って奴隷とすることができることが書かれている。これらの慣習は、宗教施設の基盤や、貴重な労働力ともなった。近代アメリカでは、孤児列車によって多数の孤児が労働が必要な場所や新しい里親へ輸送された。
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