政界入り前の職業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 05:06 UTC 版)
16年間に渡る海外在住を経て、1998年米国から帰国し、2005年衆議院選挙に出るまでの間、外資系投資銀行(インベストメントバンク)のエコノミストとして活躍した。テレビ東京のモーニングサテライトや、CNBCアジア、ブルームバーグ、ロイターなどのテレビチャンネルにレギュラー出演または頻繁な出演をし、日本語、英語でのインタビューに答えるエコノミストとして高い知名度をもっていた。現シティグループ証券エコノミストを経て、J.P.モルガン証券シニア・エコノミスト、2004年から現クレディスイス証券の日本チーフ・エコノミスト兼経済調査部長を務め、経済調査部のエコノミストのチームを取り仕切る傍らで、大学でも経済学の教鞭を取り、経済産業省、財務省の審議会などで委員として提言も行なっていた。 ●2004年にアメリカの主力投資情報誌「インスティテューショナル・インベスター」誌上の大手機関投資家による投票で、日本経済担当エコノミストとして第2位のランキングをつけた(1位はロバート・フェルドマン)ほか、日経金融新聞、週刊エコノミストなどの上位ランキングにも毎回入っていた。経済調査部が行う日本経済分析やウィークリーレポートの刊行等の監修を行う傍ら、新聞や経済誌への定期執筆やインタビューを受ける一方、各経済団体などからの講演や対談依頼、金融・経済番組などへのTV出演などを多忙にこなした。 ●投資銀行勤務では、毎年数回にわたり全米、全欧、全アジアへのマーケティングツアーに海外出張し、海外の大手機関投資家との日本経済の先行きに関するプレゼンテーションに各国まわりを行っていた。レポートや雑誌記事の定期執筆や監修の傍ら、国内講演やプレゼンテーション、海外での英語でのプレゼンテーションも含め、毎年平均400件程度の講演をこなしていた。 ●2000年台初頭、ITバブルの上昇局面で、金融業界のエコノミストたちが右へならえの強気予想を堅持した時に、業界で佐藤一人がマクロ経済にインバランスの兆候を見出し、バブル崩壊を予測し的中した。また、市場エコノミストが全て底なしの弱気一色の予想であった2003年5月、佐藤は、国内生産性の向上の兆候を複数の業界に見出し、設備投資が反転攻勢の軌道に乗るとの予測を発表した。実際にその後、株式市場は大底を打ち、設備投資も反転し、リーマンショックまでの長期的上昇局面が始まった。経済学理論を駆使して独自に開発した計量モデルで日本経済のターニングポイント(転換点)を的確に予想し、佐藤はマーケットの話題となる。経済誌では、現状延長線のエコノミスト予想が多いなかで「逆張りの佐藤」と称されることもあった。 ●投資銀行のエコノミストとして活躍は証券業界に留まらず、日銀政策委員のブレーンとして量的緩和導入への助言や、財務省主税局税制問題研究会委員、経済産業省の産業構造審議会委員、内閣府、自民党財政改革研究会の民間アドバイザー等を務め、政府与党の各種政策の企画立案や提言にかかわった。 ●佐藤は、経済学者としても頻繁に大学で教鞭をとり、経済学を教えている。1995年ニューヨーク大学経済学部でミクロ経済学・マクロ経済学等の経済原論を教える一方、2005年早稲田大学大学院公共経営研究科や獨協大学で兼任講師として経済政策論を担当し、政界入り後も、広島経済大学、中央大学大学院国際会計学科で客員教授として、経済原論科目の教鞭をとった。自民党内で、佐藤は経済政策の一任者と言われている。
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