技師と実業家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:34 UTC 版)
1913年半ば、ハウは北西オンタリオに旅し、新しい職に就いた。委員会はオンタリオ州のフォートウィリアムを本拠とし、カナダの小麦がそこで鉄道から船に積み替えられていた。委員会は穀物を加工し、保管することもできる一連の大型ターミナル穀物エレベーターを建設しようと考えていた。そのプロジェクトは能力と競争力を高めようとしていた。穀物エレベーターの製造会社は高い費用を請求して、農業関係者に非難されていた。この委員会のための最初のエレベーターは近くのポートアーサーで建てられ、カナダで建てられたものでは最良級のものかつ最安値クラスのものと主張された。その後の2年間で、ハウは西部に旅し、主要都市や港の近くでターミナル・エレベーターの建設を監督した。第一次世界大戦の間に農夫が生産量を増したので、能力が必要とされた。 1915年後半、ハウはマサチューセッツ州に戻り、マサチューセッツ工科大学の時に夏に働いた会社の社長の娘、アリス・ウースターと交際した。アリスはほとんど知らなかった男性から注目されたことに驚いた後で、最後はハウを受け入れることとなり、1916年半ばに二人は結婚した。同年、ハウは政府の職を辞任し、共同経営者と共にC・D・ハウ・アンド・カンパニーを興して事業を始めた。当初の主要業態は穀物エレベーターを建設することだった。会社の本社と夫婦の家はどちらもポートアーサーにあった。ハウが最初に受けた契約はポートアーサーで穀物エレベーターを建設することだった。1916年12月、暴風が吹いて半分完成していた穀物エレベーターを破壊し、ハウのの資産を失くした。銀行が追加融資をしてくれなければ、破産していたことであろう。ハウが完成したエレベーターを注文主であるサスカチェワン穀物生育者協会に引き渡したとき、この契約でどれほど損をしたかを尋ねられ、ハウは「シャツを失くした」と答えた。協会はハウの損失を補うボーナスを払ってくれた。 その後の数年間、ハウの事業はエンジニアリング・コンサルティング業に拡大し、さらに利益の出るゼネコンに成長した。サスカチェワンとアルバータの小麦業界がその建設工事の多くを発注してくれたので、その会社は西部で穀物エレベーターの建設を支配するようになった。このことは民間の小麦会社の間でハウを不人気にした。ハウの会社は1920年代に民間会社からターミナル・エレベーターを受注しなかったが、それら小麦協同組合のお蔭で他の建設会社が受注したよりも多くの注文を受けていた。ハウのエレベーターは工期が短く、設計に優れ、競合他社よりも安く上げられた。ハウはその効率を上げるように努力し、ハウが設計を助けたドミニオン・ハウ積み卸ろし装置は8分で穀物車を空にし、オペレーターは2人だけで良かった。同じ作業を以前の装置でやれば20人が1時間掛けてやっていた。 1920年代初期、ハウはポートアーサーの町政委員になって欲しいという要請を何度か断った。1921年に教育委員に選ばれることに合意し、最初の試みで当選した。その委員会で2年間任期を2期務め、最後の年は委員長になった。ハウ夫妻は結婚の初期に彼らの役割を分けることにしていた。妻のアリスは家事全体に責任があり、クラレンス・ハウは家庭生活に興味を持たなかった。5人の子供が生まれたが、留守がちな父親はその養育にはほとんど加われなかった。同様にハウの事業、さらに後の公的役割に妻はほとんど関わらなかった。行政の経歴で、縁故主義を示唆するような反対党の質問に答えて「私は公の場で私の家族のことを議論したくない。私の妻が政治のプラットフォームに登場することがないと気付くことだろう」と答えた。 1929年、会社はポートアーサーで能力700万ブッシェル (246,670 m3) という大きな穀物エレベーターを完成させた。しかし世界恐慌によって穀物産業には打撃となり、輸出用穀物の価格が下がり、需要も減った。穀物エレベーターにそれ以上の需要がなく、既存のエレベータには売れない穀物が保管され、さらには価格が下がった。ハウの会社は既に貰っていた政府の契約で何とか生き残ったが、これらが無くなると175人いた従業員が1933年には5人にまで減った。1934年の最初の営業日、唯一残っていた共同経営者が会社を去った。ハウは裕福な者であり続けたが、その事業の見込みが立たず、別の仕事を求めることにした。
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