戦後 朝鮮戦争
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「モンテレー (空母)」の記事における「戦後 朝鮮戦争」の解説
戦争が終わるとモンテレーは東京で復員兵を乗せて9月7日に日本海域を離れ、10月17日にニューヨークへ到着する。モンテレーの輝かしい戦績は、艦載機による5隻の敵艦撃沈、数千トンにも及ぶ多くの艦艇の破壊、数百機の敵機の破壊と工業設備破壊であった。モンテレーは復員任務(マジック・カーペット作戦)に従事し、ナポリとノーフォークの間を数回往復した。1947年2月11日に予備役となり、大西洋予備役艦隊入りしフィラデルフィアで保管された。 朝鮮戦争が発生するとモンテレーは1950年9月15日に再就役する。1951年1月3日にノーフォークを出港し、フロリダ州ペンサコーラで続く4年間にわたって何千もの海軍航空士官候補生、学生パイロットおよびヘリコプター訓練生を訓練した。1954年10月1日から11日の間に、ホンジュラスで洪水救助任務に参加した。1955年6月9日に再び予備役艦隊に戻るためペンサコラを出港、1956年1月16日に退役した。その後、モンテレーは1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-2)として艦種変更されたものの、1971年5月にスクラップとして売却されるまでフィラデルフィアに停泊した。 モンテレーは第二次世界大戦での戦功により11の従軍星章を受章した。
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戦後・朝鮮戦争
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「シーフォックス (潜水艦)」の記事における「戦後・朝鮮戦争」の解説
整備終了後、シーフォックスは真珠湾へ向かう。2週間の停泊後、フィリピンで第5潜水戦隊に合流し戦後の任務に当たる。スービック湾を拠点として、シーフォックスは1946年までフィリピン海域での作戦活動に従事し、1月12日に本国への帰還の途に就き、2月2日にサンフランシスコ湾に到着、オーバーホールを行い5月中旬に再び真珠湾に戻る。第52潜水艦部隊に合流し、1940年代の残りは3度の配備が行われた。1946年の夏には中部太平洋で、1948年冬と1949年秋には西太平洋で行われた。1949年末に第13潜水艦部隊に配属されたものの、1950年1月には第12潜水艦部隊に転属となる。半年後に朝鮮戦争が勃発し、シーフォックスは機雷敷設訓練、水雷訓練、砲術訓練、対潜水艦戦訓練に従事した。1951年9月2日、シーフォックスは西へ向かい朝鮮戦争に参加。西太平洋への6ヶ月間の配備で朝鮮海域での国連軍支援、日本海北部での対潜水艦戦訓練および哨戒が行われた。1952年3月、ハワイ諸島へ帰還したシーフォックスは沿岸での作戦活動を再開し、GUPPY IIA 改修の準備を始めた。
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戦後・朝鮮戦争
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「ティノサ (潜水艦)」の記事における「戦後・朝鮮戦争」の解説
ティノサは8月26日にミッドウェー島を出航してサンフランシスコに回航され、同地でオーバーホールに入った。ティノサは1946年1月から6月まで西海岸で作戦活動に従事したあと予備役となり、1947年1月に退役する。朝鮮戦争が勃発すると、ティノサは1952年1月に再就役した。しかしながら、休戦後の1953年12月2日に再び退役し、その後1958年9月1日に除籍された。ティノサの艦体は実験と訓練目的に使用されることが1959年3月2日に認可された。ティノサは対潜水艦戦訓練の標的艦に使用され、1960年11月にハワイ沖で沈められた。 ティノサは2年間で太平洋において12回の哨戒を行い、16隻の敵艦、総トン数64,655トンを撃沈した。これら第二次世界大戦の戦功で9個の従軍星章を受章し、第4、第5、第6の哨戒で殊勲部隊章を受章した。
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