戦後 東映・日活から洋画の名画座に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:48 UTC 版)
「小岩スカラ座」の記事における「戦後 東映・日活から洋画の名画座に」の解説
第二次世界大戦後、簱栄吉(簱興行)は空襲で多くの映画館を失ったが、同館は無事であったため、早期に復興している。鳩山一郎の日記によれば、当時日本自由党総裁であった鳩山は、東京1区(当時)で立候補した島村一郎の応援演説のため、1946年(昭和21年)4月9日の朝10時に同館(小岩松竹館)を訪れており、翌10日に行われた第22回衆議院議員総選挙で同党は第1党に選ばれている。簱興行は、池袋日勝映画劇場を同年10月に、五反田劇場を1947年(昭和22年)7月に、八幡映画劇場(市川市八幡町3丁目132番地)を1949年(昭和24年)12月には復興・開館した。1951年(昭和26年)に発行された『映画年鑑 1951』には、小岩映画劇場と改称した同館の経営者として、同時期に八幡映画劇場の支配人を務めていた前原博正の名が記載されており、支配人として黒柳靜之助の名が記載されている。観客定員数は330名と記されているが、興行系統の記載がない。1952年(昭和27年)には、駅から同館に向かう駅前通りに傘の要らないアーケードがつくられている。 1954年(昭和29年)当時の興行系統は東映および大映になっており、翌1955年(昭和30年)には東映のみになっている。島尾敏雄の『「死の棘」日記』によれば、1954年10月19日に公開された『壮烈神風特攻隊』(監督小石栄一、製作・配給東映)、同日に公開された『三日月童子 第二篇 天馬空を征く』(監督小沢茂弘、製作・配給東映)、同月13日に公開された『伊達騒動 母御殿』(監督安田公義、製作・配給大映)の三本立や、同年12月28日に公開された『浮かれ狐千本桜』(監督斎藤寅次郎、製作・配給新東宝)と同年12月27日に第一篇が公開された『新諸国物語 紅孔雀』(監督萩原遼、製作・配給東映)の二本立上映等を、家族とともに同館(小岩映画劇場)で観賞している記述が登場する。 1956年(昭和31年)9月までには小岩日活劇場と改称、製作を再開した日活の封切館に変わっている。同年秋以降の日活は、10月24日公開の『感傷夫人』(監督堀池清)、同月31日公開の『飢える魂』(監督川島雄三)、11月7日公開の『愛は降る星のかなたに』(監督斎藤武市)、同月14日公開の『若いお巡りさん』(監督森永健次郎)、同日公開の『乳母車』(監督田坂具隆)、12月5日公開の『牛乳屋フランキー』(監督中平康)、同月27日公開の『若ノ花物語 土俵の鬼』(監督森永健次郎)、同日公開の『人間魚雷出撃す』(監督古川卓巳)等を製作・配給している。 1968年(昭和43年)には、小岩スカラ座と改称、洋画の封切館に変更した。当初は封切館として『グリーンベレー』(監督・主演ジョン・ウェイン、日本公開1968年7月20日)等の新作を上映したが、早々に洋画(輸入映画)の二本立・旧作上映館に変わった。1978年(昭和53年)からは邦画(日本映画)も洋画も上映する、二本立・三本立の名画座として機能した。 1985年(昭和60年)早々には閉館した。同年4月15日には、跡地は商店街の駐車場となった。その後、江戸川区によって「南小岩コミュニティ会館」が建設され、現在に至る(2013年7月)。 同館閉館後も、成人映画館として西小岩に営業を続けた小岩映画、井上ひさしが向かいに住んだことで知られる南小岩の小岩東映(のちの小岩あんぐら劇場)とは異なる。
※この「戦後 東映・日活から洋画の名画座に」の解説は、「小岩スカラ座」の解説の一部です。
「戦後 東映・日活から洋画の名画座に」を含む「小岩スカラ座」の記事については、「小岩スカラ座」の概要を参照ください。
- 戦後 東映・日活から洋画の名画座にのページへのリンク