戦前から戦中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 18:33 UTC 版)
茅盾は1921年に近代文学運動の組織「文学研究会」設立に参加し、22年まで機関誌『小説月報』の編集を務め、外国文学の紹介や自然主義、写実主義に関する評論を執筆、儒教道徳を含まない文章は文学ではないと規定する漢以来の文学観や、文学を遊戯視する名士派を批判し、「真の文学は時代を反映した文学である」(「社会背景と創作」1921年)と主張した。また平民女子学校で教鞭をとり、上海大学で中国文学の教授となる。1924年頃から革命運動に加わって宣伝を担当。この頃は神話の研究や小説の試作を始める。1926年には商務印書館を退社、27年からは武漢国民政府で新聞『国民日報』の学芸欄の編集に携わったが、これが分裂すると廬山の牯嶺に滞在した後に上海に戻って文学に専念。草稿を元に中編小説「幻滅」を書き上げて、『小説月報』に茅盾の名で掲載、続いて1928年にかけて革命運動を描いた「動揺」「追求」を書き、職業作家となる。この三作は「蝕」三部作と呼ばれる。第一次国共合作崩壊後の混乱の中で共産党組織との連絡が切れ、以後は左派系無党派作家として活動する。 茅盾は1928年7月に上海から船に乗り日本の神戸へ渡り、東京に5か月滞在。その後、京都へ。日本にいる間に評論、エッセイや長編小説『虹』、短編小説集『野薔薇』などを書き、また中国神話の研究「中国神話研究ABC」をまとめ、1930年4月に上海へ戻った。1931年に中国左翼作家連盟に参加、行政書記の仕事に就くが数ヶ月後に神経衰弱、胃病、眼病を併発して辞職。1932年に、世界大恐慌下中国の民族資本家階級の没落を描いた長編『子夜』を執筆。当初は『小説月報』に掲載される予定だったが、第一次上海事変で出版元の商務印書館が丸焼けになったため、1933年に開明書店から単行本として出版した。1936年に救国運動団体「文芸協会」に参加、また魯迅らによるプロレタリア文学団体「文芸工作者」に参加し、魯迅、郭沫若とともに「団結禦侮と言論自由の宣言」を発表。 1937年に始まった日中戦争で上海が陥落すると、武漢を経て香港に移り、新聞『立報』の学芸欄『言林』と『文芸陣地』誌の編集をしながら新聞連載小説『君はどこへ行くか』を執筆、抗戦下の上海の事情を描いた。茅盾は38年から1年間、新疆省ウルムチの新疆学院に招聘されて教師を務めた。1940年にウルムチから延安に向かい、ここの魯迅芸術学院で教鞭をとり、続いて同年10月から重慶に滞在、41年春に香港に戻り、旅程を記したエッセイ「見聞雑記」、長編『腐蝕』を執筆。1941年に日本軍が香港に入ると、1942年に茅盾は妻と3人の作家とともに桂林に脱出し、そこで多くの作品を書いた。日本軍が迫って来ると重慶に移り、政治訓練部の文化活動促進委員となり、短編数編や最初の戯曲「清明前後」を書き、1944年には『新緑叢刊』を刊行し、新人作家の育成に努めた。
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