戦前から戦中まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 09:00 UTC 版)
「阪急500形電車 (2代)」の記事における「戦前から戦中まで」の解説
本形式も先に登場した320・380の両形式同様、急行から普通まで宝塚線及び箕面線での運用を開始した。宝塚線初採用となった広幅貫通路は、1次車の運行開始時には線内の一部に急曲線が存在したことから、2次車が登場した1940年12月まで貫通路を閉鎖して運行していた。3度にわたる増備の過程で、1形を全車今津線に転出させたことから、宝塚線では 51形の38両に次ぐ第2位の在籍数を有する形式となり、全線で幅広く運用されたことから、一躍宝塚線 の主役に躍り出た。ただ、920系に似た軽快な車体を持っていても380形同様82kw級モーターを2基しか搭載しなかったことから、出力不足は改善されず、現在の大阪駅ガード下及び阪急百貨店内にあった梅田駅を発車して、東海道本線の跨線橋を過ぎた時点で急勾配で高架に駆け上がるときは、軽快に駆け上がる320形とは異なり、本形式は380形ともども「牛のような歩み」と評されるほどかなり苦しい走りぶりで高架線へ駆け上がっていった。このため、神戸線の900形や920系との十三までの複々線区間における競争はまったく勝負にならず、当時の鉄道ファンからも 「(500形は)見た目はスマートだが、神戸線の電車とは勝負にならない」と評された。1939年には1次車に前照灯にフードを取り付けるなどの灯火管制工事を実施している。 最後に製造された3次車の522~530については、物資不足が深刻になってきたことから9両という中途半端な両数で製造が終わってしまい、530の相手となる車両は製造されなかった。このため、530は380形のラストナンバーである385と2連を組んだが、この際、530は広幅貫通路を閉鎖していた。太平洋戦争末期の1945年には一部の車両が神戸線へ転出、今津線に投入されて引き出し式のステップが活用されることとなった。ただ、空襲で502と520の2両が被災、戦後しばらくして復旧したほか、今津線で運用されていた車両も再び宝塚線に復帰した。また、戦後まもなく灯火管制用の装備が撤去されている。1949年に550形が15両製造されたが、こちらも同形式で2両編成を組むとラストナンバーの564が余ったことから、530を方向転換のうえパンタグラフ及び制御器を撤去、550形奇数車同様、特Mと呼ばれるモーター搭載の制御車扱いとされた。
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