戦前から戦中の混乱期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 03:32 UTC 版)
「京都市立立誠小学校」の記事における「戦前から戦中の混乱期」の解説
1934年の室戸台風は京都市内にも甚大な被害を及ぼし、京都市全域で即死した児童78人、重傷を負った後死亡した児童34人、訓導殉職3人など、特に木造の学校内での被害が大きかった。一方で立誠校は当時珍しかった鉄筋コンクリート造の校舎だったため、被害はほとんど出なかった。翌1935年の鴨川大洪水では学区のすぐ東側を流れる鴨川や校地に隣接する高瀬川が氾濫し、学区内の多くの家屋が浸水した。 太平洋戦争末期には個人的に縁故疎開を行う児童もいたが、1945年3月28日には立誠校から81人の希望者が京都府何鹿郡西八田村(現・綾部市)に学童疎開した。疎開児童は寺の本堂を間借りして西八田村立西八田小学校に通い、終戦後の10月18日に立誠校に戻ってきた。1948年には立誠校と近隣の京都市立銅陀小学校が合併し、銅陀校に通っていた児童約250人はそのまま立誠校に移動した。このため、1947年度に457人だった在校生数は1948年度に720人と急増した。戦後の1947年には京都市に日本初の女性校長(3人)が誕生し、そのうちのひとり、奥村琴校長は1948年に京都市立成徳小学校から立誠校に着任した。戦後に誕生した初代PTA会長も女性である。
※この「戦前から戦中の混乱期」の解説は、「京都市立立誠小学校」の解説の一部です。
「戦前から戦中の混乱期」を含む「京都市立立誠小学校」の記事については、「京都市立立誠小学校」の概要を参照ください。
- 戦前から戦中の混乱期のページへのリンク