戦前からバブル崩壊まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 07:36 UTC 版)
日本では戦前から銀行による間接金融が中心であったが、これは当時の政府が銀行を中心とした金融システムを進めていたためである。この金融システムは戦後の経済復興・高度経済成長に大きく貢献した。日本経済が欧米へのキャッチアップを急いでいた時代には、間接金融方式が大いに力を発揮した。 「護送船団方式」は戦後の資金不足時代にこそ有効に働いたシステムであったが、成長後の日本にとっては、ぬるま湯体質の温存でしかなかった。経済学者の岩田規久男は「護送船団方式が、日本の戦後の高度経済成長とその後の安定的な経済成長に寄与したと言えるが、その弊害も大きかった。『銀行を一行も潰さない』ということは、費用ばかりが嵩んだサービスの悪い銀行も生き残ることも意味する」と指摘している。 戦後、大蔵省は長期資金が稀少になったため、都市銀行・長期信用銀行を直接的・間接的に行政指導し、起債市場を厳しく規制した。長短金融分野規制の下、企業の起債は厳しく制限され、債券発行によって資金調達できる企業は限られていた。長期信用銀行(主に日本興業銀行など)は、起債規制の緩和に激しく抵抗し続け、日本の社債市場の発達を妨げた。 1980年頃から、世界では経済・金融のグローバル化が進み、間接金融中心の金融システムは時代遅れとなっていた。1980年代外国為替管理法の改正と起債規制の緩和によって、外債による資金調達、日本国内での転換社債・新株引受権付き社債の発行が自由化された。起債市場の自由化によって、大企業は社債発行によって資金調達するようになった。1985-1989年の主要企業の社債発行による資金調達比率は、8.5%から17.4%に上昇した。岩田規久男は「大企業にとっては、煩わしい審査を受ける銀行からの借り入れよりも、社債発行のほうが低金利で便利な資金調達であった」と指摘している。 バブル崩壊後、損失補填、利益供与、巨額損失の隠蔽など金融機関の不祥事が相次いで発覚した。 経済学者の三洋剛は「不良債権問題の発生・処理の遅れには『護送船団方式』による金融行政にある。バブル崩壊後も護送船団的な体質が抜け出せないまま、国民に不良債権の実態を明らかにせず処理の先送りを続けた結果、不良債権問題は拡大・長期化した」と指摘している。経済学者の野口旭は「一部の論者は、バブルよりも『間接金融の偏重』という従来の日本の金融システムにおいての『構造問題』を指摘しており、日本の資本市場は直接金融ではなく間接金融に過度に依存し過ぎ、それがバブルとその崩壊による経済的混乱を増大させたと指摘している」と指摘している。
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