戦前から1960年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 03:14 UTC 版)
戦前では、1932年(昭和7年)に余剰米対策として大蔵省醸造試験所でライスビールの研究が行われたが、市販化には至らなかった。 太平洋戦争中、ビールは戦意を高揚するための重要な戦略物資であったが、戦況の悪化に伴い食糧不足が逼迫し、ビールの原材料となる大麦や米の供給不足が顕著化した。このような時代背景もあって大麦の使用量を減らした、もしくは使用しないビール風の酒類「麦酒類似飲料」の製造開発を軍部は依頼し、農芸化学を専門とする大学や大日本麦酒などの産業関連研究機関を中心に研究が行われた。この原材料は甘藷(サツマイモ)とホップであり、現在でいう「第三のビール」に相当するものであった。 戦後も食糧不足が続き食糧管理法によりビールの製造も統制が行われたため、原材料で麦芽の使用が認められなかったことから、麦芽を使わない「合成ビール」と呼称されるビール類似の酒類開発が行われ、新規企業の太洋醸造が当時自由販売化していたイモとホップを使用したイモ・ビールの試験醸造を申請して認可され、1950年(昭和25年)から新発売され、日本の市販発泡酒第1号となったが、1年程度で終売した。1952年(昭和27年)、麦芽の原料になる大麦が統制緩和されたが、一部企業は原材料としての使用は引き続き制限されたままで、同年の合成ビールに関する特許は大日本麦酒以外にも12件登録されており、名称は「合成麦酒」「即製麦酒様飲料」「ビールの素」「麦酒代用飲料」が用いられていた。1950年代における、発泡酒の一般的な呼称は「合成ビール」「模擬ビール」「模造ビール」「原材料名+ビール(一例:イモ・ビール)」など、複数存在した。1950年代前半から後半にかけて「ビーヤ」「ビール」の名を用いたビール風味の酒・飲料が複数存在し、引き続きイモを原料とした酒「イモ・ビール」、合成麦酒製造方法で作った酒「ファミリー・ドリンク・ビール」「クイック・ビール」「即席ビール」、果実酒にホップと炭酸ガスを加えた酒「ミュンヘンビール」「リンゴビール」、焼酎割りを前提とした清涼飲料水「新ビール・ミックス」などがあった。1953年(昭和28年)、発泡酒に一定量までの麦芽の使用が認められるようになったこと、ビールの需要増加と焼酎と合成清酒の需要減退、ビールよりも参入コストと税金が少なく抑えられる利点があった事により、参入障壁の高いビールを避けて発泡酒に参入する企業が現れた。1950年代から1960年代に複数社から、この種の酒が製造・販売されていた。しかし、多くの会社は数年で撤退し、協和醱酵工業(現・協和発酵キリン)は1960年に発泡酒「ラビー」を発売して当初は好調であったが冬になると出荷が激減し、ライナービヤーは1959年11月14日に既存ビール会社からビールと紛らわしいと不正競争防止法で訴えられ、1965年6月4日に最高裁判所の判決で既存ビール会社が勝訴したことから事実上販売を差し止められた。また、1957年(昭和32年)にビール業界に宝酒造が参入したが苦戦、1967年(昭和42年)にビール事業から撤退。1964年にはサントリーが発泡酒事業ではなくビール事業に参入し、日本のビール庫出数量は1000万石を突破してビール各社が品質・販売数量を競争する時代に突入した。これらの要因などから「ビールに対抗して発泡酒を売るのは難しい」と考えられ発泡酒事業ブームは終了し、発泡酒は酒税法で定義されているものの長期間参入する企業が無い状況が続き、醸造タイプの商品は1990年代中盤まで途絶え、休眠状態のジャンルとなってしまう。
※この「戦前から1960年代」の解説は、「発泡酒」の解説の一部です。
「戦前から1960年代」を含む「発泡酒」の記事については、「発泡酒」の概要を参照ください。
- 戦前から1960年代のページへのリンク