戦前から沖縄戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 04:20 UTC 版)
1880年(明治13年)の島内人口は1,501人であったが、1903年(明治36年)は2,623人に増加し、新村渠集落の東側に新しく集落を設置した。明治期から戦前にかけては、女性と老人は農業、男性は漁業と海運業を中心に行った。大正期における漁業は1組30 - 40人による追い込み漁が盛んで、素潜り漁も行われた。1913年(大正2年)に、平安座島を本拠地とする糸満漁民と浜比嘉島の漁民により、東方海上に位置する浮原島周辺海域の漁業権を巡る乱闘が発生した。 沖縄本島北部(山原)との交易船として発展した平安座島の山原船は、酒・穀類と生活用品を山原に輸送し、さらにそこから薪・建築用材等を搬出し、他地域へ取引を行っていた。北は奄美群島、南は先島諸島まで赴くなど、広範囲に交易が盛んに行われた。古来からサバニと呼ばれる小舟4隻を組み合わせたテーサン船(組船)が主流であったが、大正末期からは大型の山原船へ移行した。大正時代から1940年(昭和15年)頃までは、100隻以上の船が平安座島に集結すると同時に生活物資をもたらし、さらにそれら目当てに島外から人々が押し寄せるなど、山原船交易の最盛期を築いた。しかし、他籍船の首里士族の一部が平安座島の田畑を荒らし、婦女暴行事件を起こすなどトラブルが絶えない時期もあった。 1944年(昭和19年)10月10日の朝、山原船による物資輸送の拠点地として平安座島はアメリカ軍の空襲を受け、200隻以上の山原船を焼失したが、死者は誰一人も出なかった。翌年の1945年(昭和20年)に、日本軍の命令により島民は金武町に強制疎開させられたが、同年6月10日に米軍が与那城に上陸した際、平安座・宮城・伊計島と本島側の住民らを平安座島へ収容した。終戦後の同年9月に発令した「地方行政緊急措置要綱」により、平安座市の形成と同時に、市長と市会議員も選出された。当市の人口は8,317人で約7割は女性であった。翌月の10月から随時住民の帰村が許可され、1946年(昭和21年)2月21日に当市は廃止された。
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