成立と運営委託
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その独立状態がしばらく続いた後、翌1933年2月9日に鉄道を全て国有とし、必要があれば接収するという「鉄道法」が公布され、即日施行された。これに基づき、同時に交通部は各鉄道会社を接収するという訓令を出して即日路線を接収、ここに「満洲国有鉄道」が成立した。 しかしさらに同時に、国有鉄道として接収後、即日その運営を満鉄へと委託する旨が訓令で続けて出された。つまり接収即委託という手続を取ったわけであり、満洲国交通部は一度も自前で国有鉄道の運営を行うことなく、満鉄に現業部門の全てをまかせて裏に引っ込んでしまったのである。 この時接収された鉄道会社は、以下の9社である。 奉山鉄路(山海関-奉天・皇姑屯-奉天総站・打虎山-通遼・溝幇子-営口・錦県-口北営子・金嶺寺-北票・連山-葫蘆島) 1899年に清が京奉鉄路関外延長線として山海関-河北間を開通させたのを最初とする満洲最古の鉄道。支線を含めた全通は1927年である。京奉鉄路の一部であったが、1932年1月9日に独立した。なお営口駅は満鉄営口線にあった既存の営口駅とは別駅で、後の河北駅である。 瀋海鉄路(奉天-海龍-朝陽鎮・沙河-西安) 元は1913年の「満蒙五鉄道覚書」および1918年の「満蒙四鉄道覚書」によって日本が敷設権を持っていた路線であったが、建設の見通しが立たなくなったため、1924年に中国側で敷設することを承認。東三省交通委員会によって改めて計画・建設が行われた路線で、1928年8月に全通した。当初は半官半民であったが、全通時には事実上官営となっていた。なお当初は奉海鉄路と称した。満鉄との並行路線の一つであり、満鉄包囲網の一部をなした。 吉海鉄路(朝陽鎮-吉林) 瀋海鉄路の建設に伴い、吉林省が計画・建設した路線。1929年8月に全通した。瀋海鉄路と連絡運輸を行い、奉天-吉林間をつなぐ役割を果たしていた。1913年の「満蒙四鉄道覚書」による路線と並行していた上に、満鉄との並行路線の一つともなり、満鉄包囲網の一部をなした。 吉長吉敦鉄路(新京-吉林・吉林-敦化・蛟河-奶子山) 元は吉長鉄路と吉敦鉄路の2社で、いずれも日本と清および中華民国の借款契約による合弁会社であった。吉長鉄路は1912年10月全通、吉敦鉄路は1928年10月全通で、いずれも満鉄が委託経営を行っていた。満洲内の鉄道の中でも特に短い路線で、2社に分割しておくと経費がかかりすぎるとの理由から、中華民国政府に対する説得の末両者を1931年11月に合併した。 四洮鉄路(四平街-鄭家屯・鄭家屯-通遼・鄭家屯-洮南) 1913年の「満蒙五鉄道覚書」による路線。1923年11月全通。1931年に単独で満鉄への経営委託を行う協定を結んだが、最終的な委託は国有化後になった。 洮昂鉄路(洮南-昂昂渓) 奉天軍閥当局が1924年9月に南満洲鉄道(満鉄)と洮昂鉄道建設請負契約を締結、翌年から満洲鉄道が敷設工事を行った路線で、1926年7月に上記の区間が全通した。区間の開通後、奉天当局が工事費の支払いを履行しなかったことから、区間完成引き渡しが懸案事項となっていたが、1933年の満洲国による接収によって支払い問題が解決し、事実上の満鉄による経営に落ち着いた。本来は斉斉哈爾までの敷設予定であったが、ソ連と奉天軍閥の交渉が長引いたことから手前で打ち切りとなった。その後の経緯は斉克鉄路の項参照。なおこの昂昂渓駅は中東鉄路西部線の昂昂渓駅とは別駅で、後の三間房駅である。 洮索鉄路(白城子-懐遠鎮) 1927年に奉天軍閥に敷設を認めさせた5つの鉄道路線の1つに当たる。ただし実際に計画・建設を行ったのは東北交通委員会で、満鉄包囲網の一部をなす路線として建設された。1931年2月に途中まで開通した状態で引き継がれた。 斉克鉄路(昂昂渓-斉斉哈爾・楡樹屯-東昂昂渓・斉斉哈爾-泰安・寧年-拉哈) 本来の計画路線は斉斉哈爾より北側のみで、南側の昂昂渓(後の三間房)-斉斉哈爾間は元は洮昂鉄路の計画路線であった。南側区間は、ソ連が北京政府や奉天軍閥に対して鉄道経営への参入を強く求めて、交渉材料として東清鉄道との線路交叉を問題視したことから、敷設工事が塩漬け状態となっていた。1928年に東北交通委員会が建設を強行したことでソ連側が譲歩したものの、どこの会社の路線か宙ぶらりんとなっていたのを、斉斉哈爾-克山間の建設開始により当鉄路に所属することになったものである。なおこの路線に関係し、北満鉄路の昂昂渓駅に接続している斉昂軽便鉄路への連絡線として、楡樹屯-東昂昂渓間を結ぶ路線も開業している。本体の斉斉哈爾-克山は、1932年12月に北満開発が泰安-克山まで途中開通させたところで接収となった。 呼海鉄路(馬船口-海倫) 清末に黒竜江省が計画した鉄道であったが、辛亥革命で一度頓挫、次にロシアと借款契約を行ったもののロシア革命でもう一度頓挫し、1925年にようやく半官半民で建設が開始された。1928年12月に全通。起点の馬船口は哈爾浜の対岸に当たる場所であり、そこから北へ路線を延ばしていたため、哈爾浜を中枢としていた中東鉄路と利害関係が衝突。孤立したまま接収された。接収に伴い各鉄道会社は「鉄路局」(例:奉山鉄路→奉山鉄路局)となり、その路線は旧社名をつけて路線群として呼ばれた(例:奉山鉄路各路線→奉山線)。しかし実際には接収前の鉄道会社がそのまま横滑りしたにすぎず、奉天など各路線の主要都市にいくつもの鉄路局が重複して所在するという、国有鉄道としては荒削りな組織体制であった。
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