後藤新平と原敬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:43 UTC 版)
日露戦争後、日本は朝鮮を領土に含め(韓国併合)、満州に南満州鉄道の権益を有するようになった。それまで朝鮮の主たる鉄道路線は標準軌であり、満州の鉄道は元々ロシア帝国が敷設した1524mmの広軌であったが、後者については戦争中に日本軍が日本製車両による軍事輸送のため旅客輸送を休止し狭軌に改軌していた。満鉄成立後、朝鮮・中国との一体輸送を行う必要から(大連 - 長春)は標準軌に改軌し旅客輸送を再開した。 1906年に成立した南満州鉄道の初代総裁には後藤新平が就任したが、続いて鉄道国有法によって一本化された国有鉄道を経営するため、1908年に設立された鉄道院の初代総裁に就任した。後藤は、満州同様に日本本土の鉄道も標準軌に改軌する提案を打ち出し、翌年同じだけの輸送力がある広軌と狭軌の建設予算と営業費の調査を行い、それぞれ現状だけではなく発展性も見込んで以下の条件を付けて比較することにした。広軌(1435mm) 中央停車場と下関停車場に別途複線を敷くが、現状の線路の位置とは限らない。 ゲージは1435mm、軌条は1ヤード(914mm)あたり90ポンド(40.5㎏)、機関車は1軸重量20.09t、重量130tの4軸聯結「テンダー」とする。 東海道線にある箱根越え、関ヶ原、馬場―京都間にある25‰、山陽線の22.5‰は10‰に置き換える。 (原文ママ、以下省略。)狭軌(1067mm) 狭軌鉄道における理想的な機関車は現在のヨーロッパ機関車よりもさらに強大で、南アフリカの3ft6inの最大機関車に比べ3割方強大なものである。ただしこの機関車を使用するには線路を相応の強度にする大改築が必要。 ドイツ鉄道で現在使用されている有蓋貨車は狭軌でこれは採用できる、したがって貨車においては広狭関係ない。アメリカの貨車は最も大きいが、南アのボギー貨車はこれに劣らないので貨車についてはボギーとすれば広狭同等と考える。 元九州鉄道の貴賓車はイギリスよりも大きく、プロシャ(ドイツ)とほぼ同じである、したがって狭軌でも建築限界を広げれば「萬国寝台会社」サイズの客車を運転できる。 1の機関車に2の貨車を連結すれば現在の約2倍の輸送力になる。25‰勾配を10‰にすれば5倍となり、旅客は2倍以上を運搬できる。 (以下省略)なお、広軌2項にある「軸重20tの機関車」当時のヨーロッパにはないのでアメリカのコンソリデーション(2-8-0)を意識しているようで、当時アメリカで一番大きいコンソリデーションがテンダーを除いて重量130t付近になるが、この時後藤たちが考えた機関車は軸重20tで4軸動輪ということから考えると「テンダーを入れて130t」の予定だったのようである。一方狭軌1項の「南アフリカの機関車」は南アフリカ鉄道の1形(South African Class 1 4-8-0、クラス1)のことを指しているらしく、総重量107t(テンダー含む、機関車のみは約71t)の同機関車を3割増し(SAR 1形は軸重14.9t)を狭軌の限界と考えたようである。 1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決された。これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新たに建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達も出された。この頃建設されていた磐越西線では、実際に平瀬トンネルが一部標準軌の規格で建設されている。 これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れた。政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していたわけだが、帝国議会で両者がぶつかり合った結果、改軌に対する予算は出さないことになってしまった。 1911年4月にはより低予算での改軌と、改軌線区の拡大を目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足し、審議が行われる。しかし同年8月、原敬が内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)に就任したため、広軌計画は中止になった。 一方で、軽便鉄道法に基づいた簡易規格の私鉄(軽便鉄道)設立を奨励し、国鉄でも軽便規格の路線が建設されるなど、政友会主導による「建主改従」の鉄道整備は、いっそう推し進められていった。だが「我田引鉄」という言葉が象徴するように、山田線や大船渡線など、政治家の介入に新線建設が振り回される事例も多々発生した(鉄道と政治も参照のこと)。
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