後藤新平秘書となる
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しばらく松崎で小料理屋生活を送っていたところ、町を訪れた先述の県会議員に紹介されて1895年(明治28年)からは小学校に書記として勤め始めた。その県会議員に今度は賀茂郡の郡長池田忠一(内務官僚池田宏の父)を紹介され、1896年(明治29年)、下田町にあった賀茂郡役所に職を得た。次いで翌1897年(明治30年)、沼津町に転任し、駿東郡役所の書記に登用される。周囲の者に勧められて1898年(明治31年)に普通文官試験を受験して合格し、判任官となった。 駿東郡役所では郡長岡本武輝に引き立てられた。岡本が沼津から台湾へと転任する際、増田も台湾で一旗揚げてはどうかと同行するよう誘われ、岡本の計らいにより増田は1899年(明治32年)7月、台湾樟脳局(後の台湾総督府専売局)へと転任した。1902年版の職員録には専売局脳務課勤務の書記とある。 増田が台湾で勤めていた頃、台湾総督府民政長官は後藤新平であった(1898年より1906年まで)。末端の役人であった増田は民政長官と接する機会がなかったが、1902年(明治35年)に専売局長の祝辰巳に随行して上京する際、たまたま議会に出席するため後藤が同じ船に乗船していたので、祝の紹介で知遇を得ることができた。その後後藤の秘書官が他に転ずることとなったので、祝らが後任秘書官として増田を推薦した結果、1905年(明治38年)4月、台湾総督府民政長官秘書官に抜擢された。同年5月時点の職員録には総督府秘書課(課長大津麟平)属の秘書官とある。 1906年(明治39年)11月、後藤新平は台湾総督府から南満洲鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁へと転ずる。増田も後藤に随って満鉄へと移り、翌1907年(明治40年)2月には後藤の一行とともに満洲の大連市へ入った。しばらく経った後神経衰弱となったので単身帰国して療養生活を送る。1908年(明治41年)7月に第2次桂太郎内閣が成立し後藤が満鉄総裁から転じて逓信大臣兼内閣鉄道院総裁となると、増田も異動して鉄道院に転ずる。鉄道院では当初秘書課(課長松木幹一郎)勤務の書記であったが、1910年(明治43年)3月24日付で高等官七等に叙され鉄道院総裁秘書兼任となる。さらに同年12月28日付で高等官六等に昇格した。 1911年(明治44年)8月、桂内閣総辞職に伴い後藤が鉄道院総裁から退任する。増田は9月1日付で鉄道院総裁秘書の兼官を解かれたが、鉄道院自体には引き留められ鉄道博物館掛に任ぜられた。同年12月28日付で鉄道院書記から鉄道院副参事に昇格する。しかし鉄道院から辞職するつもりでいたため4か月にわたってほとんど出勤せず、翌1912年(明治45年)1月11日付で鉄道院副参事からの依願免官が認められた。
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