後藤新平秘書となるとは? わかりやすく解説

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後藤新平秘書となる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:47 UTC 版)

増田次郎」の記事における「後藤新平秘書となる」の解説

しばらく松崎小料理屋生活を送っていたところ、町を訪れた先述県会議員紹介され1895年明治28年)からは小学校書記として勤め始めた。その県会議員今度賀茂郡郡長池田忠一(内務官僚池田宏の父)を紹介され1896年明治29年)、下田町にあった賀茂郡役所に職を得た次いで1897年明治30年)、沼津町転任し駿東郡役所書記登用される周囲の者に勧められ1898年明治31年)に普通文官試験受験して合格し判任官となった駿東郡役所では郡長岡本武輝に引き立てられた。岡本沼津から台湾へ転任する際、増田台湾一旗揚げてはどうかと同行するよう誘われ岡本計らいにより増田1899年明治32年7月台湾樟脳局(後の台湾総督府専売局)へと転任した1902年版の職員録には専売局脳務課勤務書記とある。 増田台湾勤めていた頃、台湾総督府民政長官後藤新平であった1898年より1906年まで)。末端役人であった増田民政長官接す機会がなかったが、1902年明治35年)に専売局長の祝辰巳随行して上京する際、たまたま議会出席するため後藤が同じ船に乗船していたので、祝の紹介知遇を得ることができた。その後後藤秘書官が他に転ずることとなったので、祝らが後任秘書官として増田推薦した結果1905年明治38年4月台湾総督府民政長官秘書官抜擢された。同年5月時点職員録には総督府秘書課課長大津麟平)属の秘書官とある。 1906年明治39年11月後藤新平台湾総督府から南満洲鉄道株式会社満鉄)の初代総裁へと転ずる増田後藤随って満鉄へと移り、翌1907年明治40年2月には後藤一行とともに満洲大連市入った。しばらく経った後神衰弱となったので単身帰国して療養生活を送る。1908年明治41年7月第2次桂太郎内閣成立し後藤満鉄総裁から転じて逓信大臣内閣鉄道院総裁となると増田異動して鉄道院転ずる鉄道院では当初秘書課課長松木幹一郎勤務書記であったが、1910年明治43年3月24日付で高等官七等叙され鉄道院総裁秘書兼任となる。さらに同年12月28日付で高等官六等に昇格した1911年明治44年8月桂内閣総辞職に伴い後藤鉄道院総裁から退任する増田9月1日付で鉄道院総裁秘書兼官解かれたが、鉄道院自体には引き留められ鉄道博物館掛に任ぜられた。同年12月28日付で鉄道院書記から鉄道院参事昇格する。しかし鉄道院から辞職するつもりでいたため4か月わたってほとんど出勤せず、翌1912年明治45年1月11日付で鉄道院参事からの依願免官認められた。

※この「後藤新平秘書となる」の解説は、「増田次郎」の解説の一部です。
「後藤新平秘書となる」を含む「増田次郎」の記事については、「増田次郎」の概要を参照ください。

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