後藤新平と島安次郎
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「日本の改軌論争」の記事における「後藤新平と島安次郎」の解説
しかし、大隈の後を次いで内閣を発足させた寺内正毅内閣の下で、内務大臣となった後藤新平は、内閣鉄道院の総裁との兼任という形になったため、ここぞ絶好の広軌化(前述のとおり、この広軌は標準軌をさす)の機会と考えた。 このころ、内閣鉄道院の工作局長を務めていた島安次郎は、独自に改軌計画を練っていた。彼は関西鉄道の出身であったが、同社は社長の白石直治の影響もあり、標準軌を推進する風潮が強かったのである。 後藤は島に命じ、その改軌計画を具体的に策定させた。この計画は、改軌工事開始から当面の間は標準軌用の線路を狭軌線路の横に取り付けて三線軌条とし、標準軌化の完了後に狭軌線路を外すというもので、改軌中に列車の運休を必要としなかった。また、構造物は急曲線やトンネルなど必要最小限の箇所の改造にとどめる、車両もステップの増設と台車の改造のみで基本的には維持するという、改軌に要する期間および費用をできるだけ節減出来るものともなっていた。本州全線の改軌に要する費用は約10年、費用は約6000万円と算段された。 また、広軌化した際の当時の日本ですぐに製造できる1435mm軌間の機関車として「軌道強度をそのままで広軌化」という前提で島が設計した広軌機関車(旅客用4-6-0・勾配用2-8-0・貨物用2-8-0の3タイプ)の図面が残っており最大軸重がいずれも14.73t、火格子面積は2.51(旅客・勾配)- 2.49(貨物)平方m、シリンダ出力1200馬力程度となっている。これら3種類の機関車は幹線を狭軌のままで強度をあげた後に実際に開発されたC53・59やD52より出力・牽引力共に小さく、また動輪直径は旅客用は1980mmと巨大だが、後の2つは1600mm・1400mmでこの時点で既に存在するなど特筆するほどこれまでと変化があるわけではないが、これについて朝倉は後に島安次郎がこの時やりたかったのは線路の強化なども一斉にやると予算と時間がかかるので、「線路の強化や車両限界の増大などは後回しにして改軌だけやり、高速走行時の安定性だけでもよくした後に線路の改良を時間をかけて行う。」という予定で「広軌改築」と言うと語弊があり、文字通りの「軌間変更」の案だったとしている。 1917年5月23日 - 8月5日に、八浜線(はっぴんせん、現在の横浜線)原町田駅(現在の町田駅)- 橋本駅で、途中の淵野辺駅を境に三線軌条と四線軌条の両方の方式による改軌実験が行われた。標準軌への改軌実験は、これが初めてであった。広軌用の動力車に2120形蒸気機関車の1台(2323号)が広軌化され、火格子面積左右に余裕ができたので同時に火室拡張も行い、これに牽引される客貨車は同じ車体でも車輪車軸の入れ替えですぐに広軌・狭軌いずれでも運転できるようになっていた。6月16日には、後藤も現場を訪れて広軌化改造された2120形蒸気機関車に便乗している。また国鉄大井工場では、それとは別に大井工場内にプロイセンとオーストリアの国境で使用され、貨車の車輪軸を5 - 6分で交換するというブライトシュプレッヘル式車輪車軸取替装置が置かれ、広軌改築期間中に広軌と狭軌の接続場所で貨物積み替えの不便を除くためこの種の装置を使う実験も行われた。 これらの試験成績は好調で終わったため、内閣鉄道院はこれを基に「国有鉄道軌間変更案」を作成した。試験の結果を踏まえ、具体的な改軌計画について定めた物となっていた。 計画は総予算6447万円で、本州の約6600kmに及ぶ軌道を1919年4月末の播但線から順番に改軌していき、同年中に山陰本線系各線、1920年に関西本線・北陸本線や山陽本線、1921年に東海道本線、1922年に東北本線や中央本線・信越本線・奥羽本線、そして1923年の房総線と総武本線を持って、本州における改軌が完了することになっていた(当然、本線に付随する参宮線なども改軌が予定された)。改造する予定車両は、機関車が2035両、客車が4851両、貨車が29592両であった。
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