後藤新平の入閣と中村是公総裁とは? わかりやすく解説

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後藤新平の入閣と中村是公総裁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)

南満洲鉄道」の記事における「後藤新平の入閣と中村是公総裁」の解説

鉄道院」、「拓務省」、「韓満所感」、「満韓ところどころ」、および「桂園時代」も参照 後藤新平は、満鉄経営のみでは満足せず満鉄中心とする一元的満洲経営目指していたが、第1次西園寺内閣では大蔵省逓信省外務省などの介入によって、なかなか彼の企図するようには事が運べなかった。そこで後藤桂太郎接近し1908年7月第2次桂内閣逓信大臣として懸案事項解決図ろうとした。後藤総裁満鉄を去るにあたって名文調の告別の辞を寄せている。後藤が去るにあたっても、首脳部では創業当時苦心によって一体感生み出されており、その団結きわめて固かった。新し満鉄総裁には、副総裁だった中村是公就任した後藤は、入閣し早々満鉄監督権逓信大臣移し1908年12月には鉄道院開設して満鉄監督権をここへ移管した。 1909年9月中村総裁大学予備門時代以来友人である文学者夏目漱石満洲招いた漱石旅行での見聞感想随筆韓満所感」および「満韓ところどころ」として書き記した当時満鉄は、その事内容内外広く宣伝することに努めており、中村総裁漱石招いたのも単に友人招待するではなく人気作家である漱石ペン通して満鉄事業宣伝させる目的もあったろうと考えられる漱石大連では中央試験所や電気公園案内され同級生だった橋本左五郎佐藤友熊夏目家書生をしていた股野義郎らと旧交を温めたまた、旅順営口奉天撫順炭坑ハルビン長春などを経て安東釜山経て内地帰った。「韓満所感」は1909年11月5日11月6日付の「満洲日日新聞」に、「満韓ところどころ」は「朝日新聞」に1909年10月21日から12月30日まで掲載された。中村総裁は、豪放なべらんめえ口調ありながら情誼に厚い親分肌で、細かい仕事有能な理事たちにまかせ、みずからはもっぱら中央との折衝に当たるという姿勢貫いた理事合議制はほぼ完全なものとなり、中央政府官僚システムとは異な植民地会社独特の合理主義官僚制業務運営におけるつよい主体性がここに育まれていた。 一方後藤は、1909年12月韓国鉄道をも鉄道院所管とすることにいったん成功し国内鉄道含めた鉄道一元的管理実現した。しかし、韓国鉄道韓国併合直前朝鮮総督府財政根幹をなすだろうとの寺内正毅らの主張こののち受け入れられて、総督府管轄改められた。後藤はなおも植民地統治一元化のために拓殖局設置し首相総裁、みずからは副総裁となったそのうえで後藤は、1910年12月、翌1911年度からの13年継続事業として総額2億3,000万円予算新橋下関間の国際標準改築案を閣議決定持ち込み、さらに第二十七議会への提出こぎつけた後藤は、国内鉄道韓国清国鉄道使用されているゲージ統一することで、戦時における軍事輸送利便向上させるのみならず内地外地経済的結びつき強めて輸出増進図ろうとした。そのため神戸港港湾修築下関陸海連絡設備の両事業鉄道院所管としたのであった。しかし、ここで桂太郎立憲政友会の「情意投合」という政治的妥協はばまれ鉄道普及優先する政友会意向により、標準軌改軌案は事実上廃案となってしまった。 なお、1911年7月ロンドン開かれた第6回国際連絡運輸会議では、イギリスカナダ日本シベリアという経路世界一周をする世界周遊券、日欧を結ぶ東半球一周周遊券設置決まり、この周遊券1913年より販売開始された。「新橋から倫敦ゆき」の切符は、ジャパン・ツーリスト・ビューロー購入することができ、ロンドンまでの1等運賃43335銭、2等運賃28645であった南満洲鉄道は、この国際連絡運輸網の幹線のひとつとなったのである

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後藤新平の入閣と中村是公総裁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)

南満州鉄道」の記事における「後藤新平の入閣と中村是公総裁」の解説

鉄道院」、「拓務省」、「韓満所感」、「満韓ところどころ」、および「桂園時代」も参照 後藤新平は、満鉄経営のみでは満足せず満鉄中心とする一元的満洲経営目指していたが、第1次西園寺内閣では大蔵省逓信省外務省などの介入によって、なかなか彼の企図するようには事が運べなかった。そこで後藤桂太郎接近し1908年7月第2次桂内閣逓信大臣として懸案事項解決図ろうとした。後藤総裁満鉄を去るにあたって名文調の告別の辞を寄せている。後藤が去るにあたっても、首脳部では創業当時苦心によって一体感生み出されており、その団結きわめて固かった。新し満鉄総裁には、副総裁だった中村是公就任した後藤は、入閣し早々満鉄監督権逓信大臣移し1908年12月には鉄道院開設して満鉄監督権をここへ移管した。 1909年9月中村総裁大学予備門時代以来友人である文学者夏目漱石満洲招いた漱石旅行での見聞感想随筆韓満所感」および「満韓ところどころ」として書き記した当時満鉄は、その事内容内外広く宣伝することに努めており、中村総裁漱石招いたのも単に友人招待するではなく人気作家である漱石ペン通して満鉄事業宣伝させる目的もあったろうと考えられる漱石大連では中央試験所や電気公園案内され同級生だった橋本左五郎佐藤友熊夏目家書生をしていた股野義郎らと旧交を温めたまた、旅順営口奉天撫順炭坑ハルビン長春などを経て安東釜山経て内地帰った。「韓満所感」は1909年11月5日11月6日付の「満洲日日新聞」に、「満韓ところどころ」は「朝日新聞」に1909年10月21日から12月30日まで掲載された。中村総裁は、豪放なべらんめえ口調ありながら情誼に厚い親分肌で、細かい仕事有能な理事たちにまかせ、みずからはもっぱら中央との折衝に当たるという姿勢貫いた理事合議制はほぼ完全なものとなり、中央政府官僚システムとは異な植民地会社独特の合理主義官僚制業務運営におけるつよい主体性がここに育まれていた。 一方後藤は、1909年12月韓国鉄道をも鉄道院所管とすることにいったん成功し国内鉄道含めた鉄道一元的管理実現した。しかし、韓国鉄道韓国併合直前朝鮮総督府財政根幹をなすだろうとの寺内正毅らの主張こののち受け入れられて、総督府管轄改められた。後藤はなおも植民地統治一元化のために拓殖局設置し首相総裁、みずからは副総裁となったそのうえで後藤は、1910年12月、翌1911年度からの13年継続事業として総額2億3,000万円予算新橋下関間の国際標準改築案を閣議決定持ち込み、さらに第二十七議会への提出こぎつけた後藤は、国内鉄道韓国清国鉄道使用されているゲージ統一することで、戦時における軍事輸送利便向上させるのみならず内地外地経済的結びつき強めて輸出増進図ろうとした。そのため神戸港港湾修築下関陸海連絡設備の両事業鉄道院所管としたのであった。しかし、ここで桂太郎立憲政友会の「情意投合」という政治的妥協はばまれ鉄道普及優先する政友会意向により、標準軌改軌案は事実上廃案となってしまった。 なお、1911年7月ロンドン開かれた第6回国際連絡運輸会議では、イギリスカナダ日本シベリアという経路世界一周をする世界周遊券、日欧を結ぶ東半球一周周遊券設置決まり、この周遊券1913年より販売開始された。「新橋から倫敦ゆき」の切符は、ジャパン・ツーリスト・ビューロー購入することができ、ロンドンまでの1等運賃43335銭、2等運賃28645であった南満洲鉄道は、この国際連絡運輸網の幹線のひとつとなったのである

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