島原の文化と太夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:15 UTC 版)
江戸中期には炭太祇(たんたいぎ)が島原で不夜庵を主宰し、親交のあった与謝蕪村らとともに俳諧活動を行った。また、その他にも島原の太夫や、文人らによる和歌などの文芸活動が盛んであったことを示す資料が多く残っている。 「太夫」とはもともと能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」(舞太夫、能太夫)などと呼ばれたものが、1629年に女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着したものである。また四条河原で能や舞に明け暮れた女性を「太夫」と呼んだ、とする説もある。太夫は通称「こったい」とも呼ばれ、置屋に所属して揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。太夫はもと御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けていなければならない。例えば、舞踊なら名取、師範になれるくらいである。 能太夫、舞太夫をルーツに持つとされる島原の太夫にとって「舞踊」(ここでは「歌舞伎舞踊」または「上方舞」をさす)は必須である。島原の舞踊の流派は、江戸時代後期まで篠塚流、その後明治の初めまで井上流であった(三世井上八千代が当流派を「祇園の御留流」とするまで)が、後に花柳流に変わった。現在は特定の流派はない。茶道もおもてなしの技術として必須とされるが、現在特定の流派はない(かつては藪内流が稽古されていた)。その他和楽器(箏、三味線、胡弓、囃子、一絃琴、琵琶 など)、唄(地唄、長唄、小唄、常盤津 など)、書道、香道、華道、詩歌(俳句 など)、古典的遊び(貝合わせ、囲碁、盤双六、投扇興など)に通じていることも必要とされる。 島原からは、八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓が輩出した。かつての島原では毎年10月に吉野太夫・大橋太夫・八千代太夫の追善供養を行った。また、戦後在籍していた太夫に、夕霧太夫(女優・中村芳子)、高砂太夫、九重太夫、春日太夫、花雲太夫、花琴太夫などがいる。 現在、輪違屋に所属する太夫は、以下の5人。花扇太夫、如月太夫、薄雲太夫、若雲太夫、桜木太夫。現在、島原太夫は「輪違屋」のお座敷を中心に、京都の神社仏閣などで、道中を披露し、舞を奉納している。祇園の舞妓、芸妓と同様の白塗りの水化粧で、口紅は「下紅」と言って、下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付ける。引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい。また公家文化の影響とも考えられる。原則として鬘を被らず、自毛で「男元禄(立兵庫)」、「長船」、「勝山」(東京でいうところの「吹輪」とほぼ同形)等の各種の日本髪を結う(髪型の種類は全48種類、うち現在でも結い方がわかっているのは26種類)。帯は前で5角形に結ぶが、これは「心」の字を表すとされる。
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