島原の乱以後の天草とは? わかりやすく解説

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島原の乱以後の天草

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 19:18 UTC 版)

島原の乱」の記事における「島原の乱以後の天草」の解説

島原の乱天草連動した根本的な理由は、寺沢広高天草石高過大に算定したことと、天草実情無視した統治行った事にある。天草石高について、広高田畑収穫37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度石高しかなかった。実際の2倍の収穫がある前提行われた徴税過酷極め農民漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め武士身分から百姓身分転じて村落指導者となっていた旧小西家家臣をとして、密かに一揆盟約成立さらには内戦至ったのであるその後是正には、島原の乱鎮圧から30年上の年月が必要となる。 島原の乱後、山崎家治天草領主となり、富岡藩成立したが、3年讃岐国丸亀藩国替えとなった天草幕府直轄領いわゆる天領)となり、鈴木重成初代代官となった。重成は禅の教理思想こそがキリシタン信仰拮抗できると考え曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三天草招き住民教化努めた一方大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯化した地域には、周辺諸藩から移住者募り復興尽力した鈴木重辰畿内転出した後、三河国田原藩から移封された戸田忠昌藩主戴いて再び富岡藩立藩された。忠昌は寺沢広高構築した富岡城破却し、残した三の丸機能移した陣屋造りとした。これは、領主藩庁石高相応簡素化することによって、城の維持管理からくる領民負担軽減するためであった。さらに忠昌は、天草温暖ではあるが離島多く農業生産力が低いため私領には適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案認められ天草寛文11年1671年)に再び幕府直轄領となったその後も、天草幕府直接統治下に置かれ明治維新まで藩の設置ならびに他藩への編入が行われる事はなかった。一方で島原藩松倉氏の後に入った徳川氏譜代家臣である高力松平戸田の3氏によって統治されることとなり、安永3年1774年)に深溝松平家藩主頂いたあと、廃藩置県迎えた島原半島天草諸島では島原の乱後に人口激減したため、幕府各藩天草・島原への大規模な農民移住命じていた。1643年には5000程度だった天草諸島人口1659年万治2年)には16000人に増加した1805年には12万人1829年には14万人増加していた。 天草場合は、乱の平定後も下島一部などにキリシタン残存した。これは離島が多いため、島原半島目地域のように住民反乱根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコフカヒレなどの海産物乾物俵物)が同じく幕府直轄領である長崎通じて清朝輸出され幕府重要な財源となったため、隠れキリシタン過度追及自粛したことなどが要因として挙げられる。[要出典]1805年文化2年)に天草地方の4に対してキリシタン取り調べおこなわれ、5200人に嫌疑かけられたが村民キリシタンであることを否定幕府側は踏み絵誓約だけで赦免している(天草崩れ)。

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