島原の乱以後の天草
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島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことと、天草の実情を無視した統治を行った事にある。天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。その後の是正には、島原の乱の鎮圧から30年以上の年月が必要となる。 島原の乱後、山崎家治が天草の領主となり、富岡藩が成立したが、3年で讃岐国の丸亀藩に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。重成は禅の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。鈴木重辰が畿内に転出した後、三河国の田原藩から移封された戸田忠昌を藩主に戴いて再び富岡藩が立藩された。忠昌は寺沢広高が構築した富岡城を破却し、残した三の丸に機能を移した陣屋造りとした。これは、領主の藩庁を石高相応に簡素化することによって、城の維持管理からくる領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、天草は温暖ではあるが離島が多く農業生産力が低いため私領には適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。その後も、天草は幕府の直接の統治下に置かれ、明治維新まで藩の設置ならびに他藩への編入が行われる事はなかった。一方で、島原藩は松倉氏の後に入った徳川氏譜代の家臣である高力・松平・戸田の3氏によって統治されることとなり、安永3年(1774年)に深溝松平家を藩主に頂いたあと、廃藩置県を迎えた。 島原半島、天草諸島では島原の乱後に人口が激減したため、幕府は各藩に天草・島原への大規模な農民移住を命じていた。1643年には5000人程度だった天草諸島の人口は1659年(万治2年)には16000人に増加した。1805年には12万人、1829年には14万人に増加していた。 天草の場合は、乱の平定後も下島の一部などにキリシタンが残存した。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコ・鮑・フカヒレなどの海産物の乾物(俵物)が同じく幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。[要出典]1805年(文化2年)に天草地方の4村に対してキリシタンの取り調べがおこなわれ、5200人に嫌疑がかけられたが村民はキリシタンであることを否定、幕府側は踏み絵と誓約だけで赦免している(天草崩れ)。
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