岸政権、安保改定
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1958年(昭和33年)5月22日の第28回衆議院議員総選挙を経て、6月12日発足の第2次岸内閣において、三木は経済企画庁長官、科学技術庁長官として入閣する。しかしこの頃から岸の強引な政治姿勢に対して三木は反発を強めていた。第2次岸内閣は同年秋の臨時国会で警察官職務執行法の改正案を提出した。この法案は野党の激しい反発を招き、自民党内の反主流派も岸の強権的な手法に対する批判を強め、三木も岸に対して改正案の廃案を申し入れた。結局、警察官職務執行法の改正案の成立は断念されたが、12月27日、岸の政治姿勢を批判した三木、池田、灘尾弘吉の三閣僚が揃って辞表を提出した。 三閣僚辞任という事態を受け、岸は1959年(昭和34年)3月に予定されていた総裁選の日程を前倒しして、1月に行うことを決定した。1月に総裁選を行えば三木や池田は準備不足で立候補できないだろうと判断したのである。岸の読み通り三木も池田も総裁選に出馬しなかったが、反主流派の統一候補として三木と派閥を共同運営していた松村が総裁選に出馬することになった。1月24日に行われた総裁選の結果、岸は過半数の票を集めて総裁に再選したが、松村も三分の一を上回る票を獲得し、自民党内においても岸に対する批判が根強いことを示した。 岸は日米安保条約の改定を、自らの内閣が取り組むべき最重要課題と位置づけた。サンフランシスコ平和条約と共に締結された日米安全保障条約は、米国の対日防衛義務が明記されていない、日本国内での内乱時には米軍の治安出動が認められている、米軍基地の使用について日本側に全く発言権が無い等、日本側から見てあまりに不平等で問題が大きいという意見が強く、是正の必要性があることについては日本国内ではほぼコンセンサスを得られていた。 しかし是正の方向性については、不平等性を解消した上で日米安保体制を堅持しすべきと主張する自民党を中心とした保守勢力と、日米安保条約を廃棄して中立路線に転換すべきとする社会党、共産党など革新勢力が鋭く対立していた。 三木は日米安保条約に賛成しており、破棄を主張したことは一度も無く、これまでの条約の不平等性の解消に繋がる改正を主張していた。1959年2月、三木は池田、河野一郎とともに、条約と密接な関係にある行政協定の大幅見直しを主張し、当初米国側の反発を受けたものの6月末に見直し交渉がまとまった。 条約改正案で特に問題となったのが極東の範囲と事前同意の有効性の確保であった。三木は在日米軍の極東への出動に日本側の事前同意を義務化するよう主張し、極東の範囲についても金門島、馬祖島の除外を主張するなど、改定交渉に注文をつけた。1960年(昭和35年)5月12日に国会の質疑に立った三木・松村派の古井喜実が、 新安全保障条約は防衛的なものであり仮想敵国は想定しない 事前協議での日本側の拒否が米国側の行動を制約する旨明記すべき そして極東についての統一解釈は地域を指定しないものとする という3点について岸に要求した。岸はいずれの点についても了解ないし理解すると答弁したため、三木らは日米安全保障条約改正への批判をいったん抑えることとした。 5月20日、日米安全保障条約は衆議院で会期50日間の延長が可決した直後に強行採決された。三木は強行採決について事前に知らされておらず、河野、石橋らとともに強行採決への抗議のため議場から退席し棄権した。三木は退席後の記者会見の席で、自分は条約改正に際し、極東の範囲、事前協議について審議を尽くすよう要求してきたことと、安保条約にあくまで反対する人々は説得できないが、賛成しながらも内容に不安を持つ人も多いのに、そのような人々への説明、説得を十分に行わずして強行採決を行うことは議会制民主主義の冒涜であり許せないことを主張した。日米安全保障条約のような重要な案件は、民主主義の根底である国民の理解、納得を得る努力を惜しむべきではないとしたのである。 なお、岸は三木が採決時に退席したことについて激しく怒り、後継候補として池田を推薦する条件として、三木と河野を党から除名することを挙げた。その後も三木と岸との間の確執は続くことになった。
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