岸朝子編集長時代における部数躍進
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「栄養と料理」の記事における「岸朝子編集長時代における部数躍進」の解説
1950年代半ばから1960年代半ば頃には揚げ物が誌面に取り上げられることが増えたが、これは栄養審議会答申で脂肪摂取に関する言及があったことなど、時代の風潮にかかわっていると考えられる。1950年代半ばにはそれまであまり載ることのなかったイタリア料理やドイツ料理などのレシピも掲載されるようになった。1960年前後には白米食批判とともに、「頭のはたらきをよくする」食生活に関する記事が流行るようになり、『栄養と料理』にもそうした特集記事が掲載された。この頃の雑誌のコンセプトは「病人を出さないための食事」であった。 1968年、女子栄養学園の卒業生である岸朝子が45歳で編集長に就任し、一度の中断をはさんで10年ほど編集長をつとめた。岸は既に2回、恩師である香川綾から『栄養と料理』への引き抜きを受けており、3度目にして声かけに応じて主婦の友社を辞職し、女子栄養大学出版部に移ることを決めた。岸はそれぞれの編集部員に「やりたいこと」をやらせることを重視した。それまでの「お堅い雰囲気」を一掃し、手に取りやすい誌面作りを心がけたという。岸は読者層の拡大を目指すべく、他の婦人雑誌にならって雑誌のサイズを大きいものにし、「遊び心」のある誌面を目指した。カラーのグラビアも多用した。1968年に入社し、編集長として初めての号を1969年1月に刊行したが、この号は完売した。岸のもとで始まった企画としては、各地の家庭料理を紹介する「日本の食事」や、やはり各地の美味しい料理に関する情報コーナーである「おいしんぼ横町」がある。岸は「今では当たり前のこんな企画も当時は目新し」いものであり、『an・an』や『non-no』などの女性誌に影響を与えることができたと語っている。こうした努力が功を奏し、一時は売り上げが倍増し、20万部を突破したという。この時期の企画は「食べ歩きや器の特集といったグルメブームを先取りする企画」と言われ、高く評価されている。また、「カロリー」や「成人病予防食」といった言葉はこの時期の『栄養と料理』の影響で一般に広く使われるようになったと考えられている。この頃の売り上げ増は、女子栄養大学の知名度向上や志願者増加に貢献したと考えられている。一方で「雑誌を堕落させた」として女子栄養大学の内部からは批判もあったという。岸はキャッチコピーなどが「ミーハー」だとして「冷やかされ」たことを回想している。 岸は一時、外転神経麻痺のためしばらく編集長職を辞したが、1年ほどで復帰した。しかし復帰後は発行部数があまり伸びず、編集部員のストライキも発生した。さらに1978年、編集部員の異動に関して出版部長と意見の相違が埋められなくなったことをきっかけに、岸は54歳で『栄養と料理』を離れた。 1972年には鉄分や長寿食など、食べ物と健康にかかわる記事がたびたび注目されて読売新聞でとりあげられていた。1974年までは「あなたの暮らしに」というモットーをかかげていたが、1975年からは「現代を健康に生きる」にモットーを変更した。
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