尾去沢銅山事件とは? わかりやすく解説

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尾去沢銅山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 02:41 UTC 版)

尾去沢鉱山」の記事における「尾去沢銅山事件」の解説

江戸末期財政危機にあった南部藩御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額借財をなしたが、身分制度からくる当時慣習から、その証文は藩から商人たる村井貸し付けた文面形式上はなっていた。藩所有尾去沢鉱山村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山借りて経営している形になっていた。1869年明治元年)、採掘権南部藩から村井移されたが、諸藩外債返済の処理を行っていた明治新政府大蔵大輔の職にあった長州藩出身井上馨は、1871年明治4年)にこの証文元に返済求め、その不能をもって大蔵省尾去沢鉱山差し押さえ村井破産至った井上はさらに尾去沢鉱山競売付し同郷人である岡田平蔵にこれを無利息払い下げ上で、「従四位井上馨所有」という高札掲げさせ私物化図った村井司法省一件訴え出、司法卿であった佐賀藩出身江藤新平がこれを追及し井上逮捕求めるが長州閥の抵抗かなわず井上大蔵大輔辞職のみに終わった江藤下野し佐賀の乱死刑になったため真相解明されずに終わった。これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件尾去沢汚職事件とも)という。 政界離れた井上は、鉱山手に入れた岡田とともに1873年明治6年秋に東京鉱山会社」を設立翌年1月には鉱山経営に米の売買軍需品輸入加えた貿易会社岡田組」を益田孝らと設立岡田急死銀座煉瓦街死体となって発見)により鉱山事業切り離し同年3月益田らと先収会社設立、これが三井物産へと発展していった。

※この「尾去沢銅山事件」の解説は、「尾去沢鉱山」の解説の一部です。
「尾去沢銅山事件」を含む「尾去沢鉱山」の記事については、「尾去沢鉱山」の概要を参照ください。

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