尾去沢銅山事件
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尾去沢銅山事件(おさりざわどうざんじけん)とは、明治時代初期に発生した、旧盛岡藩領にあった尾去沢鉱山(現・秋田県鹿角市)の明治政府への接収と、その払下げにまつわる疑獄事件。大蔵省の大蔵大輔(次官)であった井上馨が関与したとして、司法省の追及を受けた。
事件の発端となる南部藩からの譲り状では「尾去沢銅山」の名称が用いられており[1]、本文中ではその記述を中心とする。
尾去沢銅山接収の経緯
尾去沢銅山
尾去沢鉱山は慶長年間(1596 - 1615年)に金山として開発され、寛文年間(1661 - 1673年)からは銅を産出するようになった[2]。この山が盛岡藩領と定まったのは延宝年間(1673 - 1681年)のことである[2]。
戊辰戦争時、軍資金の捻出に困った盛岡藩は、長らく御用商人として関わりのあった鍵屋四代目村井茂兵衛から23万両の融通を受けていた[3]。さらに慶応4年11月(1868年12月)、追加で7万両を上納することの代償として、尾去沢銅山の経営権を委任することとなった[1]。
しかし明治元年12月(1869年1月)の盛岡藩の白石転封処分により尾去沢銅山は政府の直轄地となり、12月7日から盛岡県[注釈 1]の支配下となった[5]。明治2年6月(1869年7月)、盛岡県は明治6年(1873年)までの6年間の経営を茂兵衛に認めた[6]。同年7月に盛岡藩が盛岡11月28日(1869年12月30日)、銅山のある鹿角郡は江刺県に編入された[6]。
一方で政府は尾去沢銅山の政府経営を目指し、旧南部藩士の大島高任を民部省鉱山司権正に任じて調査を開始していた。大島は明治3年4月(1870年5月)に「尾去沢銅山の設備は古く、改善には莫大な金額が必要」「設備改修が終わるまでは引き続き江刺県の管轄で、村井茂兵衛に経営を任せるべき」という意見書を提出した[7]。明治3年8月(1870年9月)には民部大丞井上馨が現地調査を行い、12月(1871年1月)には大島の意見通りに村井茂兵衛に経営を任せることが決まった[8]。
盛岡藩の借金偽装
明治2年7月22日、盛岡藩は盛岡の地に復帰したが、新政府から70万両の上納を命じられた[9]。藩の勘定奉行川井清蔵はイギリス商人オールトから洋銀14万2千枚を借り受けて上納金の一部に当てようとしたが、藩の上層部から外国人からの借金を上納金に当てることは出来ないと拒絶された[10]。借り受けが破談にすると莫大な違約金が発生する契約であったため、川井はこの金で汽船の運用をすることとした。汽船の運用は村井茂兵衛に託され、藩から12万4427両2歩を貸出し、その利息分を茂兵衛から上納させる契約が成立した[11]。茂兵衛は翌年から盛岡藩産物商社の頭取に就任させられたため、様々な盛岡藩の契約に参加せざるを得ない立場となっていった[12]。
明治3年2月(1870年3月)、南部藩のオールト商会からの借受が大蔵省に発覚した。2月14日、川井はこの疑惑を糊塗するため、茂兵衛がオールト商会から汽船購入代銀8万8千枚を借り受けたという明治2年8月9日付けの二通の証文を作成させた[13]。しかし6月にこの偽装は発覚し、民部省に呼び出された川井は50日、茂兵衛は40日の押込処分を受けた[14]。
7月10日、知藩事南部利恭からの申出により、盛岡藩は廃藩となり盛岡県が設置された[14]。これを受けてオールトは借金の返済を要求した。9月15日、盛岡県とオールトの間で、元利合計洋銀26万1796枚7合5勺を四回払いで返済する契約が成立した[14]。盛岡県は最初の支払いにも苦しみ、茂兵衛が経営していた汽船、尾去沢銅山の出銅見込書、小銃購入代金を引当に15万両が政府から貸し付けられることになった[14]。ところが最初の支払期限が来ても盛岡県からの支払いは実行されず、オールトは政府を訴えることとした。明治4年10月(1871年11月)、外務省はすでに支払いがあった20万7283ドルを差し引いた残額11万5202ドル27セントをオールトに支払い、茂兵衛とオールトの借金問題は一応解決を見た[15]。
盛岡県は返済の過程でさらに膨大な借金を生み出すこととなり[注釈 2]、総計40万円余の外債を抱え、これは全て政府によって弁済された[17]。しかしこれにより、政府と茂兵衛の間で貸借関係が発生することになる[15]。
村井茂兵衛は盛岡藩・盛岡県への金利支払いに苦しみ、さらに尾去沢銅山の成績も不振となっていった[19]。しかし盛岡県はオールトへの返済が滞るたびに茂兵衛に資金を要求した。こうして県からの「貸下金」という名目の、村井茂兵衛からの県の「借入金」は、8万4000両に達した。明治3年9月13日、盛岡県は茂兵衛に対し「為国家其方家産ヲ傾ケ候テモ尽力可致」という達を発出し、茂兵衛がオールトへの返済義務を背負うこととなった[20]。
大蔵省による接収と払下げ
村井茂兵衛は最初に藩から貸付を受けた12万4427両50銭の内、11万3318両67銭を返済しており、残金は1万1108円82銭6厘5毛であった[21]。また県からの銅の未納代金5367円50銭があり、差し引くと5741円32銭6厘5毛が債務として残っているはずであった[21]。
しかし明治4年9月2日(1871年10月15日)に発足した大蔵省判理局は藩が茂兵衛に「貸付」を行っているという証文を多数発見した。茂兵衛は証文で「貸付」となっているのは江戸時代からの慣習であり、書類上は「奉内借」となっていても、実際は茂兵衛側からの貸付であると反論した[22]。大蔵省十等出仕・判理局主任川村選はこれを認めず、未済金3万6000円余の即時上納を命令した[23]。7月13日、村井家は民部省から身代限の処分を受け、家産を自由に扱うこともできなくなっていた[24]。
茂兵衛は胃潰瘍を患い、家産も自由に使えないため上納金の捻出が困難であり、分割での上納を訴えたが、川村はあくまで一括の支払いを命じた[25]。追い詰められた茂兵衛は川村の「諭旨」により、尾去沢銅山を返上し、その買上代金を以て上納金を差し引く嘆願を行わざるを得なくなった[26]。
明治5年3月18日(1872年4月25日)、川村選は「岡田平蔵尾去沢鉱山引受願之儀ニ付見込取調伺」という稟議書を大蔵大輔井上馨に提出した。この稟議書では、未済金と為替会社への納金、年貢米代金を含めた総計5万5400円を茂兵衛が支払う必要があるが、払えないことは明白であり、茂兵衛の「嘆願」もあることから、尾去沢銅山とその付属物を政府が買い取るべきであるというものであった[26]。さらに銅山の経営を別のものに任せなければならないが、幸いな事に大阪の商人岡田平蔵が事業継承を申し出ているというものであった[26]。債務については3万6000円は岡田が年賦で支払い、残金は岡田と茂兵衛が相談の上折半するとされていた[26]。
岡田平蔵は幕末期の横浜で活動を開始した商人であり、明治初年度には由利公正の依頼で政府の仕事も請け負うようになっている[27]。明治2年には五代友厚とともに古い金銀貨を溶かして地金として造幣寮に収める事業を行っている[27]。明治4年の廃藩置県の際には、各藩が所有していた大砲を溶かして青銅地金とする事業で巨利を上げ、「伊勢平」のあだ名で呼ばれた[28]。またこの頃から阿仁銅山や院内銀山などの鉱山事業を開始している[29]。当時大蔵少輔として井上の部下であった渋沢栄一の明治45(1912年)5月2日の談話によれば、岡田は井上や渋沢の屋敷によく出入りしていたという[29]。
3月25日、大蔵省から尾去沢銅山買受けの達が発され、茂兵衛はこれを受けざるを得なかった[30]。これにより村井家の家産差し押さえは解除された[31]。同日、岡田平蔵も請書を提出し、これにより3万6108円を15年賦・無利息で支払うという破格の条件で尾去沢銅山を手に入れることとなった[31]。
司法省への訴えと井上馨の失脚

村井茂兵衛はその後も上納金調達の努力を行っており、その目処がついた旨を大蔵省に伝えたが、すでに払下げは実行されていた[32]。村井はこれを不服として酒田裁判所に訴え出たが、退けられたために司法省裁判所に直接訴えることとした[32][注釈 3]。
茂兵衛が司法省裁判所に訴えを起こしたのは明治6年(1873年)2月頃と見られている[34]。これをうけた司法卿江藤新平は、司法大丞兼大検事兼警保頭の島本仲道に調査を命じた[34]。
島本は「村井が五万五千余円の責任ありと云ふは、全く圧制によりたるものと認む」として、村井の訴えは正当なものであるとしたうえで、払下げの手続きで公売が行われないなど不透明であり、「岡田某は当時の大蔵大輔井上馨の親近者」であるから、「私交私情に出でたるものにして,両者の間に醜関係の存在せざるやの疑なき能はざるなり。」と井上と岡田平蔵による癒着を指摘した報告書を作成した[35]。ただし、この報告書がいつ作成されたかは不明である[36]。
岩倉使節団が外遊中の留守政府では、急進的な改革を求める各官庁と、歳出削減を求める井上ら、木戸孝允派である大蔵省の対立があり、明治6年になると予算を巡って対立はいよいよ激しくなっていた[37]。また外務卿副島種臣は台湾征討を主張しており、井上らはこれにも反対していた[38]。この状況を打開するため、1月19日に洋行中の木戸と大久保利通に帰国が命じられている[37]。
井上は正院を改革して対抗しようとするが、これは江藤や大木喬任・後藤象二郎という井上反対派が参議となることに繋がり、井上らはいよいよ追い詰められた[37]。井上と大蔵少輔渋沢栄一は5月はじめに辞表を提出、5月14日に受理された[37]。江藤はこれ以降征韓論論争に尽力していくため、尾去沢銅山事件に注力したわけでなかった[36]。井上なきあとの大蔵省は大隈重信によって掌握された[37]。
7月22日、木戸が洋行から帰国したが、大蔵省における木戸派が壊滅したことを知り、留守政府の打倒を目指すようになる[37]。その後西郷隆盛の朝鮮派遣を巡る政争が起こり[39]、10月23日に西郷・江藤らの辞職という形で終結した[40]。
10月25日、江藤の後任には反井上派であった文部卿大木喬任が兼任する形で就任した[41]。11月10日には報告書を作成した島本が、小野組転籍事件の関連で辞職している[41]。
井上の鉱山事業
失脚した井上は実業界での活動を目指し、岡田平蔵のすすめもあり、鉱山業に進出するとして、8月8日から一ヶ月半の東北視察旅行に出た[42]。8月29日には尾去沢銅山を訪れているが、この際に「従四位井上馨所有銅山」という立て札を立てたという噂がたったが、井上はこの事実を否定している[43]。井上の公式伝記『世外井上公伝』は、井上下野後の岡田を「公が實業界に乗り出すに當り、股肱として最も信頼されてゐた人物」と評している[44]。
岡田は尾去沢銅山の経営権をこの年の秋に設立した「東京鉱山会社」に移し、翌明治7年(1874年)年1月、井上、エドワード・フィッシャー商会、岡田らは「岡田組」を設立し、米の取引・輸出事業を始めた。ところが1月15日、岡田は東京銀座煉瓦街で死体となって発見された[43]。井上はこの後鉱山事業を断念している[42]。
司法省の捜査

明治6年5月23日に四代目村井茂兵衛が胃潰瘍で没した後[45]、その子が五代目村井茂兵衛の名跡を継いだ。五代目茂兵衛は6月12日に尾去沢銅山の経営再委任を大蔵省に求めたが、認められなかった[45]。12月18日には司法省裁判所に訴状を提出したが、翌明治7年(1874年)1月8日に一旦取り下げ、2月5日に再度訴えを行った[41]。
この頃になると司法省が井上に嫌疑を向けていることは明らかであり、世上でも次第に井上への疑惑が寄せられるようになっていった。井上は3月15日の大蔵卿大隈重信宛書簡で、「如斯政府より疑を受、如何ニも遺憾切歯之至ニ候」と無念の思いを訴え、「不遠内司法より呼出シ詰問も可有之と覚悟罹在候。」と捜査をも覚悟していると述べている[46]。一方で「併何卒旧知を被思召出、大木辺えも可然御弁解」と旧知である大隈が司法卿の大木に弁解を依頼し、「司法え呼出シナシニ、相済候得ば無量之仕合」と、喚問無しに事態が落着することを期待する記述を行っている[47]。大隈はこの依頼に応じたようであり、3月29日には井上から大隈に礼状が送られている[48]。
5月9日には茂兵衛の上納金処理に関わった大蔵省六等出仕・判理局長北代正臣の喚問が司法省から正院に請求された[49]。しかし北代は内務省の命令で、長崎への長期出張に出ていたため、喚問は難航することとなる[50]。
5月18日、偽借用書作りの主導者であった川井清蔵は、藩の借金を個人の借金と偽ったという余罪が発覚したとして、司法省裁判所から禁錮一年の処分を受けた[51][41]。一方でオールトの証書に四代目茂兵衛が署名していたことは、「懲役三十日ノ贖金二円二十五銭」に相当する罪であるとされている[49]。
11月13日、上納金の再調査を川村に命じた大蔵少丞小野義真の喚問が決定したが、病気のために11月29日に釈放された[52]。
12月8日には井上に対して喚問の伺が出された[48]。井上は高位である従四位の位階を持っていたため、裁判所で喚問するためには太政官の決議が必要であった[53]。明治8年(1875年)3月22日、太政大臣三条実美から、井上の尋問は「封書」で行うようにという達が下った[54]。司法省の官吏はこれに反発し、5月13日には井上を司法省裁判所に呼び出して喚問することが認められた[55]。
井上は明治8年4月30日付中野梧一宛書簡において、司法省が井上に罪があると決めつけており、何を行っても言わなくても罪に陥るのは必然であるという半ば諦めの気持ちを綴っている[56]。
木戸孝允の介入

一方、この状況を憂慮していたのが木戸孝允であった。木戸は明治7年12月15日付伊藤博文宛書簡において、「井上司法省云々いか丶なる事に候哉窃に心配いたし申候」と述べたうえで、伊藤の「御保護」を依頼している[49]。明治8年(1875年)2月には大阪会議によって大久保利通・板垣退助・木戸の三人の合意が成立し、木戸は政府に復帰することになるが、この協議実現に尽力したのは井上であった[57]。木戸は3月11日付伊藤博文宛書簡で「井上世外も一応参議に被召出候而ハ如何」と井上の参議就任を求める考えを述べている。一方で、井上に対する尾去沢銅山事件にまつわる嫌疑は「行政上の誤」であり、「何も私心私情より出候事にも無」と、汚職事件であることを否定し、贖罪金で済む話ではないかとしている[58]。
木戸と伊藤は司法卿大木と司法大輔山田顕義に働きかけ、裁判官の交替を画策していた[59]。4月25日には調査の主任であった河野敏鎌が元老院議官に「栄転」した[58]。さらに事件の調査を行っていた小畑美稲は長崎上等裁判所に移り、井上訴追派の急先鋒であった聴訟課長大島貞敏も高知裁判所に転勤となった[58]。木戸は判事として池田弥一と立木兼善が起用されるよう伝えている[59]。
井上らの喚問
しかし木戸らの工作は完全に井上への嫌疑を回避するには至らなかった。川村選を取り調べた判事は、「其実ハ井上ニ於テ茂兵衛ノ銅山取揚ゲ平蔵ヘ云々ノ造意」があり「川村え〔ママ〕命ジ窃ニ著手為致タルナラン」と井上による銅山強奪の意思を断じている[60]
7月22日には川井清蔵が取り調べを受け、「奉内借」というのは村井茂兵衛が藩から借りたと申し立てたのは虚偽であったと述べている[61]。
8月22日・25日・27日、井上は司法省東京上等裁判所において判事の推問に答えた。井上は痛くもない腹を探られたとして、「憤怒ニ不堪候」と怒りの気持ちを綴っている[62]。9月30日には再度裁判所で喚問を受けているが、この頃には「定テ生ハ更ニ無罪と相成候模様」と楽観的な見通しになっている[63]。
しかし関係者への喚問、特に長崎出張をしていた北代正臣の喚問が難航したことで、捜査は長期化していた。 10月20日、喚問に応じた北代は、判断当時は熱病にかかって「平臥」していたため正常な判断ができなかったと弁解した[64]。尋問した判事は「川村ヨリ北代ヘセシハ全ク名義ノミ」であり、「忠兵衛ヘ説諭等モ長官ノ差図ニ随ヒシコトナラン」として、井上が直に川村に指示したものと判断している[65]。また同日、川村は供述書において、村井茂兵衛の代理人堀松之助に対して口裏合わせの工作を持ちかけていたことは心得違いであったと述べている[66]。
また五代目茂兵衛に対して2万5000円を返却することについて、司法省と大蔵省の話し合いがつかなかったことも長期化の原因となっていた。このため11月23日に井上は大蔵省が五代目茂兵衛に2万5000円を早急に還付することを「懇願」する書簡を大隈に送っている[67]。
判決
明治8年(1875年)10月30日、司法卿大木喬任より、太政大臣三条実美宛に、井上馨・北代正臣・大蔵大丞岡本健三郎・渋沢栄一への判決を示した伺いが提出された[68]。この伺いでは、主犯である川村選が犯した罪の従犯として、決済文書に署名・連署した罪に対する判決を示したものであった[68]。
井上・北代については「旧藩ニ外国負債取調ノ際村井茂兵衛ヨリ取立ヘキ金円多収スルノ文案」、すなわち四代目茂兵衛から多くの金銭を取り立てたという文書、岡本と渋沢については「村井茂兵衛稼尾去沢鉱山附属品買上代価同人承諾ノ證書相添サル決議ノ文案」、すなわち四代目茂兵衛から承諾の証書が添付されていない尾去沢銅山買い上げの文書に署名したことが罪状とされている[69]。
井上らは当時大蔵省官吏であったため、明治3年(1870年)に制定された『新律綱領』にある「名例律同僚犯公罪」の罪に問われた[69]。この罪においては、主典が罪を犯した場合には、判官が第二従、次官が第三従、長官が第四従とされた[69]。これにより井上・渋沢は第三従、北代・岡本は第二従となる[70]。量刑は従類が下がるごとに、主犯の罪から等級分が差し引かれたものとなる。これにより、北代は罪一等を減じられ「懲役2年半」、井上は罪2等を減じられ「懲役2年」相当となる。一方で岡本・渋沢については罪を減じられた結果、「無科」、すなわち刑罰を科されないこととされている[70]。
北代については当時病中であったことが考慮されて「懲役1年」に減刑された[70]。更に北代は「官吏公罪罰俸例図」に照らして罰俸一ヶ月、井上については「平民贖罪例図」に照らして30円の贖罪金と言う処分とされている[70]。これらの処分は11月8日、三条によって承認された[70]。
一方で11月8日、大木は四代目茂兵衛の上納金のうち、2万5000円を取り立てすぎたとして大蔵省に対して返却を命じるよう三条に上申している[71]。大蔵省は1万円の下げ渡しについては同意したものの、1万5千円については返納すべき仮受金であると反論した[72]。
12月26日、東京上等裁判所において正式な判決が下った。これにより、主犯とされた川村選は官物の出納にあたって相違があったとして、懲役3年の刑であるところ、「過誤失錯」であるため「官吏公罪俸例図」に照らして「罰俸3ヶ月」の刑が課せられた。また、四代目茂兵衛から買い上げ証書を取り付けなかったのは「違式ノ罪」であり、「懲役10日」の刑が課せられた。一方で村井茂兵衛の代理人に対する口裏合わせの工作については、本来懲役30日に相当する所、本罪が軽いとして罪に問わないこととされた[72]。またこの工作に関与した岸本且矩と玉井半三郎についても罪を減じて無罪とされている[73]。
北代・井上・岡本・渋沢についても、前述の大木の伺い通りの判決が下った[74]。大蔵少丞小野義真については「不束」な儀がなかったとして無罪、尾去沢銅山買い上げの証書に連署した大久保親彦も罪一等を減じられ無罪となっている[75]。川井清蔵の罪も「詐欺」に当たると認定されたが、すでに処罰を受けているため刑を課されることはなかった[76]。
また判決においては、五代目村井茂兵衛に対し、2万5000円の返却を行うことが定められ、川村・北代・井上の判決文ではこの件について言及されている[77]。
判決の翌日である11月27日、井上は元老院議官に任命され、政界に復帰を果たした[76]。同日、井上は「誠ニ以長々御苦配被仰付、且ハ老台之名誉迄モ汚スニ至リ、実以心事不安、恐縮之至リニ御座候」と木戸孝允の尽力に感謝する書簡を送っている[78]。
その後の訴訟
明治9年(1876年)3月25日、五代目茂兵衛への2万5000円還付が正式に決裁された[79]。 しかし司法省の判決では、尾去沢銅山の経営権については全く触れられなかった。
明治10年(1877年)9月19日、五代目茂兵衛は、尾去沢銅山とその付属物買上げ処理の際、不足が生じた代金の支払いを大蔵卿大隈重信に求めた[80]。大蔵省は付属物の代金は、未納の上納金に相殺されたとしてこれを認めず、明治11年(1878年)に粗銅の未払い代金5367円50銭の下付のみに応じた[81]。
さらに五代目茂兵衛は、尾去沢銅山の所有権を取り戻そうとしたが、代言人の松尾清次郎の助言で、尾去沢銅山の経営権購入代金12万4800円から、大蔵省の還付金2万5000円を差し引いた10万円の賠償を求める訴訟を明治11年(1879年)4月29日に行った[82]。しかし茂兵衛側が要請した井上馨の証人としての出廷は実現せず、茂兵衛側の敗訴に終わった[83]。
明治27年(1894年)、五代目茂兵衛は「政府ノ銅山不当処分ニ関スル請願」を衆議院議長楠本正隆に提出したが、議会がまもなく解散されたため審議されることはなかった[84]。明治30年(1897年)には「藩債処分違算金下附請願」を衆議院議長鳩山和夫に提出したが、審議・採択に至ることはなく、銅山の所有権が村井家に戻ることはなかった[85]。
尾去沢銅山のその後
岡田平蔵の没後、その子岡田平馬のもとで明治10年(1877年)に改組された鉱山会社が経営を行っていた。しかし平馬没後に頭取となった阿部潜は銅山主任や平馬の子と対立、主任らが勝手に銅山を三菱に売却するという事件も発生している[86]。明治20年(1887年)10月には阿部らとの間で和解が成立し、銅山所有権は完全に三菱に移ることとなった[86]。
事件に対する評価
事件のさなかではあからさまな批判的論評は見られず、事件が井上馨が尾去沢銅山を「強奪」したという見方が多く見られるようになったのは、大正時代以降である[87]。この事件に関する井上の評価はよいものではなく、汚職・疑獄に関与する人物として、井上の名が挙げられることは多い[87]。
事件当事者による評価
井上は明治8年10月20日の供述書において、藩債の処理は北代と小野に、村井茂兵衛の上納金に関しても川村が主導していたことだとしており、「巨細之始末」は覚えがないと述べている[88]。また川村の「越度」に対して「粗漏捺印」したことは「無念」であり、四代目村井茂兵衛から承諾書を取り付けなかったのは自分の「不行届」であったと述べ、「上長官」としての責任はあるとしている[89]。
また、茂兵衛の身代が微力となり、尾去沢銅山の経営が困難になっていると判断し、岡田平蔵にそれとなく経営を頼めないかと聞いた所、岡田はこれを拒否したという[90]。その後説得し、半ば強引に引き受けさせたとしている[91]。
渋沢栄一は「それ(井上と岡田が親しくしていた)故に其山を取らせたい為に、無理に藩の借にして、大蔵省でしきりにやかましく言つて、村井の山を伊勢平に売らせるやうにした、其間には魂胆があつたと云ふ邪推が、始終継続して居つた。」と述べている。『渋沢栄一伝記資料』でも事件の本質は事務上のミスに過ぎず、「公(井上)に反感を抱いてゐた者がこれを利用して、揣摩臆測をなし、虚妄の声を大にして公を陥れようとしたものに過ぎなかつたのである」として、問題を大きくしようとしたものによって事件に拡大されたとしている[92]。
その他の評価
明治30年(1897年)に発行された『評伝 井上馨』では、「井上等大蔵省在職中尾去沢銅山を其借區人村井茂兵衛より強奪し以て自ら利する所あり」として、事件は井上による尾去沢銅山の強奪であり、江藤新平がこれを阻止しようとしたものの、木戸の介入によって井上は罪を逃れたという形で紹介されている[93]。
大正5年(1916年)、江藤新平に贈位があった頃、伊藤痴遊も同様に、井上の汚職、江藤による摘発を前提とした形で発表している[94]。
昭和8年(1933年)に発行された井上の公式伝記『世外井上公伝』では、盛岡藩の負債算定に対するミスであり、江藤によって仕掛けられた冤罪としている[95]。
脚注
注釈
- ^ 旧盛岡藩領のうち岩手郡・閉伊郡・九戸郡の一部に置かれた県。松代藩の取締下に置かれていた[4]。
- ^ オールトとの支払いが滞った場合、盛岡藩は米三万石を代わりに引き渡す予定であったが、不作で米価が高騰したため、一部を買い戻す契約を結んだ。しかしこの交渉の過程で盛岡藩は計8万6000両を高知の九十九商会から借り受けることとなった[16]。借財返済のための汽船の運用も思わしくなく、明治3年12月にプロイセン人ライスヘンケイから洋銀10万ドルを借り受けている[17]。このライスヘンケイへの借用証書には、村井茂兵衛も債務側で連署している[18]
- ^ 明治5年11月28日と明治6年2月25日、司法卿江藤新平は司法省裁判所への直訴を可能とする布達を行っている[33]
出典
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関連項目
尾去沢銅山事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 02:41 UTC 版)
江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた。1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、村井は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。江藤が下野し、佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずに終わった。これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件とも)という。 政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田とともに1873年(明治6年)秋に「東京鉱山会社」を設立、翌年1月には鉱山経営に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立、岡田の急死(銀座煉瓦街で死体となって発見)により鉱山事業を切り離し、同年3月に益田らと先収会社を設立、これが三井物産へと発展していった。
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